新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

仏の顔×3

 残機という言葉があります。飛行機に乗る系統のシューティングゲームから来ているそうですが、一般にゲームでの残りライフポイントというか、残りミス許容回数といいますか、そういう使われ方をします。ボンバーマンやマリオでも残機という表現を用いても不自然とは思われません。ファミリーコンピュータでのスーパーマリオブラザーズではスタート時の残機数は3でしたが、スーパーファミコンスーパーマリオコレクションに移植された同作品では残機数が5になっていたように思います。ゆとり仕様です。おまけにセーブまでできる。ところがセーブは出来てもチビマリオからのスタートとなるのでいくらW8-1から再スタートできるとは言えキノコも食えぬままクッパ城へ攻め込まねばならぬのでなかなか難しいものでした。

 

 立川を舞台にした聖☆おにいさんという漫画作品があります。いろいろあって立川で暮らしているイエスとブッダのお話です。ブッダは仏ですので時々後光が差したりもしますが基本的にはパンチパーマのおにいさんとして扱われます。作中で「仏顔×3」というプリントのシュールなTシャツを着ていたりして、大変シュールな笑いを誘うものであります。

 

 ところが、"仏の顔も三度まで"というのにも、個人差があるのではないでしょうか。三度までなら許される、四度目はブチ切れ回されても仕方ないというのは大変乱雑な一般化であって、人によっては仏の顔の在庫が払底しており、不義理一回でブチ切れ回す場合もあるでしょうし、徳が高くて仏の顔が潤沢な人なら30個ぐらい融通してくれる場合もあるでしょう。ここで重要なのは日頃の行いです。日頃から仏の顔に甘えきってタダで寄越せ寄越せと言うだけの人と、普段から落ち度なく生活している人、ラスト一丁のブッダフェイスをどちらかに売ってあげようと考えますか。また、普段から気に食わないヤツに貴重な貴重なブッダフェイスをやすやすと販売するでしょうか。おわかりですね、「仏の顔は売るほど持っていても貴様にやるブッダフェイスはねえ!」という状態が仏の顔が払底している状態です。忘れがちですが、ものの売り買いという行為は契約なのです。「これを売って欲しい」という意思に対して「これを売っても構わない」という意思が合致して初めて売買が成り立つのです。従いまして仏の顔は潤沢であっても、"貴様は許されない行為をして出禁だから仏の顔はお売り出来かねる"となれば、警備員のおじさんに店からつまみ出されておしまいです。

 

 では、仏の顔の在庫数というのはどこに表示されているのでしょうか。お答えしましょう。"正確なことは商店主も把握していない"のです。なんと困ったことでしょう。というより、大変流動的な品物ですから、個数というまるでモノタロウの即納表示のようなものさしで示すことが難しいのです。よほど親しい間柄ならば、「あと仏の顔はいくつ残っているのか」と訊けば、「あの件とあの件で350ミリバールほど使ったからもう残ってねえよ」と真摯に返してくれるかもしれませんし、関係悪化を恐れて、在庫数を不当に水増しし、「まだみっつしっかり残っているよ(大嘘)」などと返す可能性もあります。繰り返しますがその日の気分で仏の顔というものはバーゲンセールされたり唐突に在庫切れで富士山が噴火して手がつけられなくなる場合もあるのです。仏の顔をお出しするかブチ切れ回すかの瀬戸際ともなれば、あとはもう詫び土地権利書とか詫び外車とかそういうものの有無が今後のあなたの人生を左右するかもしれません。再三繰り返しになりますが、仏の顔をお出し頂けるかどうかは、もはや誠意の領分であり、3つあるから大丈夫じゃないかひとつ寄越せと言っても、この仏の顔は売らん!絶対にだ!先祖代々のブッダフェイスをそう安々とくれてやるわけにはいかん!と言われて大変なことになってしまう場合すらあるのです。

 

 つまるところ好き放題しても土下座したり服脱いだりしたら仏の顔を卸売してくれる美人とかイケメンとか、札束で仏の顔を乱れ買いするお金持ちは有利ですよねという、身も蓋もマンホールもない話になってしまいました。

 

 仏の顔卸売りセンターよりアヘ顔卸売りセンターで働きたい。

身長差

 ブログの更新をサボっていたところ、実の妹から「更新が停滞していてつまらないからテーマをやろう、"身長"で一本書け」とLINEが飛んできたのでようよう筆を執ることにしました。そもそもどうしてかというと、普段私が妹の外観を文字で伝えるときに「ちょいと縦方向に伸ばした艦隊これくしょんの"磯風"」とか、「筋肉を差し引いた艦隊これくしょんの"長門"」とか言うかららしいのです。これの何が問題かといいますと、私より妹の身長が低いことから、磯風っぽい印象が拭えないのです。本人の弁では、自分よりも背の高い人からは「磯風」のほか、「山田葵」あるいは「佐城雪美」とか言われるものの、逆に背の低い人からは「放課後プレイの彼女さん」と言われるそうであって、なるほど目線の高さと言うのは思っているより重要なのではないかと考えた次第であります。

 

 私が普段から好んで聴く松任谷由実の楽曲に「5cmの向こう岸」という曲があります。歌詞を書くと日本音楽著作権協会がお金を徴収しにまいりますので各自で聞いたり読んだりしていただくとして、内容は自分よりも5cm低い彼氏とのお話です。男のほうが身長が低くてもええやんけ、と思うのですが、時代背景を考えると"三高"がステータスだったというのもあり、人の目を気にしてしまったようです。

 

 ところが、これは私の個人的な空間認識かもしれないのですが、自分より身長が低いか、あるいは同じ程度の人間に対しては、"ほとんど身長差を感じない"のです。なんというか、上手く書き表すことが出来ないのですが、"身長が印象に残らない"とでも言いましょうか。160~175cm程度の高さレンジに入る人々はみんな背丈の印象が残らないのです。

 

 とはいえ、あまりに小さいとか、自分の目線より大きいとかとなると話は別で、しっかりと印象に残ります。主に身長そのものが。例えて言えば志田未来とか。TBS系の火曜ドラマ「まっしろ」で私が堀北真希を指して「あれAKBの誰だっけ」って聞いて妹とオフクロにえらいツッコミを受けた作品です。作中で堀北真希(160cm)と志田未来(150cm)が並んだのを見て「うわ志田未来ちっちぇえなあ」とかは思ったりしますが、堀北真希の身長に対して特別な感想を持つことはありません。中高の同級生でも、よっぽどデカいかよっぽど小さいかしない限り高さ順に並べろと言われても、正しくは並べられない気がします。

 

 厚生労働省のデータだと、概ね同世代の男性は平均172cmぐらい、女性は平均159cmぐらいのようです。これを中央値として適当な脳内標準偏差のグラフの"ある幅"に収まっていればデカいとも小さいとも判定されずに脳みそに格納され、その幅から外れたらデカイ/小さいとして認識されるのでしょう。おそらく脳はそのようなガバガバ判定を高精度で行って比較的短時間でデータを整理しているはずです。

 

 よくドラマやアニメやマンガや小説、つまるところ創作世界の中ではエスカレーターや階段を用いてカップルが身長差を解消してキスするシーンがありますがあんなもんは嘘でしょう。本当に好きならしゃがんだり背伸びしたり椅子に座ったり押し倒したりしてでもキスしたいはずです。よってキスしやすい身長差なんてものは存在しません存在するのはいつでもキスできるかどうかの心理的障壁の高さのみです以上Q.E.D証明終了おしまい閉店ガラガラ☆本日の上り列車は終了しました☆

 

 よくこの話をするのですが、私の好物の一つにおねショタと言うものがあります。背の高いお姉ちゃんの母性本能をくすぐってちっちゃい男の子が性的に可愛がられてしまうようなシチュエーション一般を指します。従っておねショタというものを物理的に楽しもうとすると実際にショタだった頃まで時間を巻き戻すか自分がタイムふろしきに入るしかないのですが、本日現在時間は巻き戻らないしタイムふろしきは未来デパートから取り寄せできません。っていうか時間を"巻き戻す"という表現すらも全盛期の遺物と化しそうです。時間軸というものが巻物よろしく過去ローラーと未来ローラーでもってぐるぐると連続して巻き取られている図を想像できるのはVHSで録画予約をしていた世代までなのではないでしょうか。

 

 というわけで、ただでさえ男女の身長差があるのにただでさえ平均身長より大きく育ってしまうと自分より大きい女性の母性本能をくすぐって甘えるというのが絵にならなくて困ります。いや困るのが絵面だけかよと言われると実際そうなのでありますが。

 

 しかし大丈夫です人間はほとんど水で出来ていて大変柔らかいのでセックスしながらキスしたり普通にできるはずですよほどの身長差があっても大丈夫愛があれば大丈夫ということで本日は終わりたいと思います。

 

 川の字で寝りゃあ重力関係ないし身長差も関係ねえからみんなセックスしような。

リモコン

 皆様の家にはテレビがあるだろうか。一人暮らしだとなかったりするのが昨今の事情っぽいし、私の家にもテレビはなく、もっぱら会社で見るのことのほうが多い。とはいえ実家にはある、という方が多いだろう。さて、そんなテレビと切っても切り離せないのがリモコンである。単3か単4電池を2本入れてボタンを押すと赤外線の信号が飛んで行くアレのことだ。今日はチャンネルのボタンに関する講釈を少々垂れることとする。

 

 今本日ナウ*1この文章をお読みの方ならば地上デジタル放送への切り替えというのは記憶に新しいだろう。それ以前は地上アナログ放送であった。VHFで1~12chとUHF13~62chだったような割り振りで、○○テレビは42ch、とかいうのを新聞のテレビ欄の上の端で確認して設定していた。とはいえ、指針がないと不便であるから、リモコンボタンの番号とテレビ局はある程度の対応がついていたように思う。なので、近所の友達の家に行っても違和感なくテレビのリモコンを扱えたはずだ。ひとんちにテレビのリモコンを操作するレベルで馴染んでいいのかどうか、というのはさておき。

 

 ところが、これで困るのが転勤族だ。脳みそに馴染んだチャンネルの番号と数年おきにサヨナラ。覚えるのを放棄した家族の「ミリオネア何チャン?」「ドラえもん何チャン?」「マジカル(頭脳パワー)何チャン?」……疲弊した母親がついにキレる。母がキレるのである。革命が起こる。ブチ切れた母親の合理的解決策は、実家も含め、東京のチャンネルボタン割り振りで統一する、というものであった。つまり、我が家のテレビにおいて、1~12のチャンネルボタンはどこに住んでも次のように割り当て直される。

笹松さん家のテレビのリモコン

1:NHK総合

2:空き(※ファミリーコンピュータのRFアダプタ)

3:NHK教育

4:日テレ系

5:空き

6:TBS系

7:空き

8:フジテレビ系

9:空き

10:テレ朝系

11:NHK-BS

12:テレ東系

 

 11番にNHK-BSを割り当てるのが少々特殊ではあるが、それ以外は地上アナログ時代の首都圏が基準となっている。こうすることで田舎に住んだ場合は砂嵐のチャンネルが増えるものの対応可能である。

 

 リモコンといえばリモコンローターというものがこの世に存在し、よくエロ漫画に登場する。しかしあれは情緒もへったくれもない。せっかくリモコンなのだから弱中強みたいな味気ない振動を与えるのではなく、操作者の息遣いが伝わるようなリモコンローターを世に送りだそうではないか。というわけで送信側はタダのラジコンボタンではなくマイクにする。受信側もオンオフ弱中強ではなくマイクからの音声信号をモーターの回転数に変える回路を組み込む。どちらも簡単だ。送信側はFMワイヤレスマイクを作ってそのまま流用すればいいし、受信側はFMラジオのスピーカーを取り外してスピーカー手前の信号をトランジスタに接続してモーターをドライブすればいい。モーターに適切な容量のコンデンサをパラってやれば良い感じに動くだろう。たぶん。

 

 そうすることで、マイクにぴちゃぴちゃと水音を吹き込めばモーターが寸動してブル……ブル……と震え、マイクにデコピンを食らわせればモーターにはひときわ大きな電流が流れて大きな刺激が加わり、マイクに愛してるよ愛してるよと優しく語り続ければモーターが優しく震える、という世界に類を見ないリモコンローターの完成である。ガッハハハ。ボロ儲けできるわい。製品化を検討されたメーカー担当者はぜひご相談を。一緒に大儲けしませんか。

 

 リモコンローターお散歩したい。

*1:2016年11月

ブルータス

 ブルータス、お前もか、というセリフは世界史的には有名であろう。裏切られた哀れな人間の捨て台詞(ただし手遅れ)である。なあに、人間恨まれたりしたことは覚えちゃいないのだから「あの日のあれ」が原因で刺されたり裏切られたりする可能性を忘れてはいけない。なにせ、人間というのは脳みその構造上そういう行き違いが起こりやすいからだ。

 

 座右の銘というほどでもないが基本的な行動方針というものが誰しもあるように思う。私の場合は、

  というものだ。人間誰しも裏切られたり刺されたりした瞬間、相手を確認して、おおよそ「信じられない」という感情を抱くだろう。なんでお前がそんなことを、と。しかしながら、"刺す側"の主観としては刺し殺すに足るだけの事情というものがあるのだから、脳みそをパカっと開いて主観を共有できない以上、相手側の意思を尊重する必要がある。というのは綺麗事であって、実際には刺された瞬間に考えるのは生命機能の維持であって、裏切られて窮地に立たされたならば社会的地位の喪失を防ぐのが急務となる。相手方の主観の把握は二の次だ。

  続いて私の好きなtweetをひとつ。堀江貴文氏が逮捕されたりする前はよく言っていた「想定の範囲内です」という言葉がある。氏が逮捕されるところまで想定していたかどうかはさておき、ありとあらゆる「かもしれない」を想定して備えておくのは危機管理の第一歩である。「火事が起きるかもしれない」から消火器というものがこの世に存在し、119番という電話番号が存在するのだ。

 

 話がそれた。人間「してあげたこと」は忘れないものだ。なぜならば、自らの身銭を切り、時間を用意し、時には自分が優先したかった事柄そっちのけで何かを施したという記憶は色濃く残る。人間は負担に敏感である。500円貰うのと500円払うイベントがあったとして、記憶に残るのは払う方であろう。

 

 ところが案外「してもらったこと」は忘れてしまう。特に毎日してもらったことというのは忘れられやすい。仮に相手がどれだけのリソースを負担して毎日なにかをしてくれていたのかというところに想像力が行かない。なんでもいい。毎日弁当を作って持たせてくれた母親。会社と家の往復になりながら養育費を出して餓死することなく給料を持って帰ってきた父親。愚鈍な自分に愛想を尽かさず話に付き合ってくれる友人。「ひょっとして、相手はなにかしらの負担をしてくれているのではないか、自分のために、採算度外視で」という想像力がいつか身を助けることになりはしないだろうか。逆に、そういう視点の足りなさが、いつか身を滅ぼすことにならないだろうか。今一度、考えたい。

 

 

 ……という考え方をしながら生きるとなおさらツラくなるのでなーにも考えずに中出し生セックスしてなーにも考えずに子供作ってなーにも考えずに会社とおうちを往復していればOKで一人前でちゃんとした大人として世を歩けた高度経済成長がうらやましいなあというだけのお話でした。

 

 こんな堅苦しい時代におっぱいのひとつもないのか、もう誠実に生きてなどやるもんか、後は野となれ山となれ、隣の芝は青かった。家系ラーメンには青カッパ。

 

 考えたら負け、中出しで感じろ。

誠実さリスク

 皆様は"誠実"と言われてどういうイメージを抱くだろうか。何事にも実直、逃げず、諦めず、けれどもズルもごまかしもせず、ただひたすら人畜無害に生きている架空の青年を思い浮かべることだろう。まるで私とは正反対ではないか。常に俗物のごとく女の体をまるでモノのように欲し、無責任膣内射精がこの世で至上の快楽であると唱えて憚らない。大金も欲し、毎年冬になると年末ジャンボを連番で3枚買ってまるで億万長者になったかのように語る。実に誠実とはかけ離れた存在である。こんな私であるが、オフライン、というよりビジネスではまるで誠実に振る舞うという評判がある。大衆の評価なんていくらでも作れるのだ。内面でどう思っていようとも"役者"をすればあたかも誠実な青年の一丁上がりである。今日はそんな誠実さを信じてしまうリスクについて説きたい。

sasamatsu.hatenablog.jp

 とは言ったが上記記事の焼き直しであることに気づいたので以下適当にお茶を濁したり飲んだりしつつやることとする。

 

 上記記事のように世には、というかどんな人にもホンネとタテマエが存在するというお話ではあるが、基本的に世間様一般では"まるで自分は誠実ですよ"というタテマエでそういう役者をして生きるのが一般的な局所最適解である。「私は不誠実です、責任は何一つ取らないし遅刻はするしズル休みはします」と相手に認識されたら間違いなくダメ人間判定で不採用でフリーランスになっても仕事が降ってこずにハローワーク通いをしつつ生活保護をもらうこととなる。生活保護をもらうとたいへんなバッシングを受けるため生きづらくなる。以上おしまい。と見事に詰むので、少々役者をしてでも「私は誠実です、責任は取ります、ズル休みはしません」と相手に認識されるようなふるまいをすることとなる。するとどうだろう、そういう"役者"をしない人間、つまりホンネで行動する人間こそが不誠実な存在とされる。そんなばかな。うせやろ。

 

 しかし現実はどうであろうか。就職も結婚も"ホンネ"をなるべく騙ってあたかも"誠実さ"が滲み出ているような芝居を打ってなんとか漕ぎ着けやしないか。就職すればこっちのもの。正社員は犯罪でもやらない限りクビはあり得ない。結婚すればこっちのもの。少々問題点が沸いてこようが戸籍に傷がついたり慰謝料を争ったり別れるほうが多大なエネルギーを必要とする。山を超えてしまえば一安心というわけで、なんとか山を超えるまでは誠実ごっこに勤しむ人々の多いこと多いこと。日本企業の生産性の低さやら、毒親育ちの多さはこのあたりに問題があるのではなかろうか。つまり解雇規制を緩和してじゃんじゃんクソ社員を切れるようにして、結婚制度や戸籍制度を解体して、今そこに存在する赤子に社会保障をかける制度にすればよいではないか、という大変過激な結論に至ってしまった。当然、既得権益として正社員をやっている人やダメ亭主という地位に甘んじている既婚男性や経済的に夫にベッタリでさりとて家事が十分できているかどうかというと微妙な感じの既婚女性やらは猛反対するだろう。とはいえこの国は民主主義であるから、現行の解雇規制に不満を持っている層や結婚制度を快く思っていない層が選挙権の多数派となれば話は別である。

 

 よく言われることであるが、現行政府与党が「伝統的家族」として昭和時代の夫が働き妻が主婦で子供が居て、というモデルを推すワケは上記の通りであって、結婚制度に夢を持たせるためなのである。結婚制度で"幸せな家庭"を築くモデルが崩壊したら、夢を持っている未婚の人々が反旗を翻し、戸籍制度からして崩壊の危機である。とはいえ現状はどうだろうか。人間の本質は変化である。その変化が許容範囲を超えたとき、人は同じ家族という器に納まるだろうか。……これまでなら、無理くり家族であり続けた結果が親の不仲やそれに伴う子供の精神的負担という形で現れたことだろう。しかし、これもまた社会は黙殺し続けた。"精神病院に行くなんてキチガイのすることだ"という有形無形の圧力でなかったことにされてきたのだ。昨今、ようやく"精神科"や"精神病院"という名称から"心療内科"や"メンタルクリニック"と名前も変わり、「夜寝られない」程度で診察してもらえる空気が出来てきたように思う。結果どうだろうか、どれだけの人々が"家族"という枠でストレスを感じ、生命保険お断りとなるような薬で助けられていることだろう。こうなってくるともはや、家族こそが、家族を作るということが日本の病理ではないだろうか。

 

 ここまで至るにあたって2つの変わらない原因がある。"誠実なフリ"をすること、"就職"や"結婚"が重すぎてそれ自体がゴールとみなされがちなこと、の2点である。後者の、"手続きの目的化"については個人の考えで明日から変わるわけではなし、難しいから政治におまかせであるのがたいへんツラいが、前者の"誠実なフリ"をやめることは明日からでも可能である。なんなら今日からもできる。

 

 軽く走ったりして良い感じに汗が染み込んだ美人のおっぱいをブラジャー越しに吸いながら頭を撫でられたいし、そのまま美人と生セックスしたいし、終わったら一緒にお風呂入りたいし、その後はベッドでパジャマでイチャイチャしたいしそのまま二回戦したいしそのまま目覚ましも掛けずに一緒に眠りたいけどお金も欲しいからちょっと働かないといけないんだよなあ宝くじ当たんねえかなあ……。

 

 なんかこう、最後だけ諸般の事情でちょっと誠実になっちゃった気がしなくもないけれど、大枠はずれてない。きっと。たぶん。

 

 ねないこだれだ なかだしするぞ

すごいつりざお

 ポケモンをゲットする手段の一つとして存在するのが「つりざお」である。今日はそんな釣りのお話。ポケモンでは「ボロのつりざお」「いいつりざお」「すごいつりざお」をそれぞれ別の釣り場に住んでいるつりオヤジの兄弟から頂戴するという手段が取られていた気がする。太古の昔より針と竿を使った魚釣りは人類の食料調達手段として存在したというのが定説であり、漁法として生業にするものもあれば、趣味として釣りを楽しむというのもある。

 

 さて、笹松さんは釣りをするのかしないのか、と言われると「したことはある」のである。オヤジとその同僚に連れられ、仙台港でサバを釣り、北浦でブルーギルを釣り、赤塚城址公園でモツゴを釣り、とそれなりに釣ってきた気がする。父と母方の祖父の共通の趣味が釣りであったからか、それなりの道具が実家に転がっていた。

 

 では最近どこで釣りをしたのかと言うと、もう10年近く前になる。修学旅行で沖縄へ行ったときの選択型コースで船釣を選んだのが最後だ。船釣のほかはシュノーケリングやらバナナボートやらそういうもうちょっと体を動かす系統のマリンスポーツがラインナップされていたが、どうにも食指が伸びなかったので魚釣りにした。引率教諭2名と、それぞれの船に10人ずつぐらいの2隻で漁港を出発した。

 

 釣りをしたことがあるにも関わらずだいぶ遠ざかっているので記憶が曖昧だが、リールの付いたつりざお、それなりに太めの糸、涙型のオモリがついたシカケをドスンと海底に着地するまで垂らして、地球を釣らないようにすぐ少し巻く道具だった。ガバガバである。餌はオキアミ。釣り始めてすぐに異変が訪れる。「わー釣れないねえ」などと隣の友人に声をかける。反応がない。「おい大丈夫k」と言うが早いか、手を伸ばして制止された。話しかけないでくれのポーズ。これはあれだ。吐き気を必死に我慢している姿だ。オーケーオーケー、そっとしておこう。見渡せば引率教諭と私以外ダウンしているではないか。なんという船酔い地獄。確かに小さい船で揺れは激しかったが。

 

 そんなこんなで周りがダウンして図らずも独壇場となった。教諭と合わせて爆釣である。沖縄特有の真っ青な鯛やら黄色と青の鯛やら、切り身で売られていたらとうてい美味しく見えないトロピカルな魚が次々にかかる。最初はボウズだったらどうしようかと考えていたが、港に戻って1人1匹ぐらいはある程度に釣れてくると、今度はさてこの船酔い連中で食べ切れるのかと心配になってきた。

 

 漁港に帰ったら速攻で捌いてくれて油で素揚げとなった。魚というのは見た目以上に捌くと可食部が多いのだなあという感想は単に釣りすぎたからか。沖縄の海に沈み行く夕日を眺めつつ満腹となった。……だったら良かったではないか、と思われるかもしれないが、漁港側で「万一ボウズだった時のための」もずくの天ぷらをも用意してくれていて、満腹にターボがかかった状態まで負荷をかけてしまった。禁断のレッドゾーンまでキッチリ回る我らの胃腸。男子高校生の胃袋はコスモではあるが限界もある。8,000回転までキッチリ回ったら限度である。ひいひい言いながら食べた記憶が思い出された。

 

 なお、当然ホテルに戻ると夕食が出るわけで、けれど残したりした記憶はなく、我々のテーブルは他の卓から「お料理余ってませんか」などと回収して回っていた*1記憶はあるので、なんというか、若いって凄いなあ……もうあんなに食えないだろうなあ……と思う。

 

 お気づきの読者もいらっしゃるかもしれないが、下記の記事に出てくる魚釣りの話を詳細に記したのが本記事です。合わせてお読みください。

sasamatsu.hatenablog.jp

 

 美人の一本釣りはうまくいきませんでした。

*1:中華料理のように大皿が回転テーブルに載っていた記憶がある

ご安全に

 労働災害、それは労働中に起こる災害のことであって、けして起こってはいけないことであるから、世の会社というものは労働災害が怒らぬように日々対策を打ち努力しているのである。とはいえ、最終的には個々人の安全意識に委ねられる部分も大きく、極論を言ってしまえば、自殺志願者が溶鉱炉にぴょんと飛び込んでも労災になってしまうだろうし、吊り荷の下に入ってクレーンのリモコンを長い棒でつついて操作して自らを圧死へ導くことも出来てしまうのである。希死念慮の前に肉体労働と重機はたいへん強力な自殺道具として立ちはだかるから、なにはともあれ"心の健康"というのが大事かもしれない。だからこそ使用者は満足できる賃金を支払い、「次の給料日までは」「次のボーナスまでは」死なずに仕事をしようじゃないかというイノベーションじゃなくて利益をほら英語でいうモチベーションじゃなくてなんだっけえーっと(検索)インセンティブ(なんか違う気がする)を労働者に持ってもらうのがいいだろう。

 

 時々言われるように、遠距離のドライブ等出かける際に「気をつけて行ってらっしゃい」と声をかけられると、そうでない場合に比べ事故る割合が有意に減るそうだ。そういう意図があるのかどうかは知らないが、人命に関わる職場ではよく「ご安全に!」という挨拶のようなものがある。労災は当然起こさぬ上に、場合によってはお客さんの命、財産等を失わないよう、お互い一日安全に仕事をしましょうという心がけの挨拶である。重い金属を扱う職場、特別な免許が必要な車両を扱う職場、可動する工作機械を扱う職場、高温/低温等特殊な環境に置かれる職場。そういった職場では「不安全行動」をそもそも行わないよう、様々な取り決めがなされており、少々の手間がかかったとしても正しい手順で仕事をすることで、自分だけではなく、一緒に働く仲間の命も守ることになる。

 

 安全第一といえば日常的に行うクルマの運転もそのひとつだろう。「かもしれない運転」を心がけよ、とよく言われる。「あの角の一旦停止線を横着してちょっとボンネット分ぐらい出したら運悪く90歳のババアが出てきてぶつけて骨折してめんどうなことになるかもしれない」とか、「今日給油する必要はないけれど明日未明に大地震が起きてガソリンスタンドが長蛇の列になるかもしれない」とか、「明日朝キーを回したらバッテリが死んでてエンジンが掛からないかもしれない」とか、常に「万一」を考えてクルマとかかわる運転のことだ。当然、「DQNのクルマとぶつかって明らかに過失割合が10:0なのに金を払ってくれないかもしれない」というリスクも考慮して、任意保険には弁護士特約を入れてある。

 

 車の運転とよく似た行為としてセックスが挙げられる。こちらも安全運転が一番である。相手をケガさせたりしてはいけないので、爪を短くして角を丸めておくとか、性病予防と避妊のためにコンドームをつける、とか、常に"安全運転"が求められると言う点で車の運転に酷似している。クルマの運転もセックスも「しない」という究極のリスク回避策は同じことなのだが、得られる便益/快楽がそのリスクを超えたところにあると判断した結果が今日の日本である。クルマの運転を回避するべく東京に集まる。セックスの快楽を回避するべく娯楽の多い東京に集まる。あらあらまあまあ東京というのは日本で一番のリスク回避地であったか。タックス・ヘイブンならぬリスク・ヘイブン。そりゃそうだ。クルマを転がせばうっかり人を殺すかもしれないし、セックスすればうっかり人が生まれるかもしれない。"人命より尊いものはこの世に存在しない"という不文律でもあるのだろうか、人が死んだ瞬間に何か世界の物理法則が変わるわけでもなし、物質的には牛が死のうが人が死のうが変わらないのであるが、どういうわけだか社会性極まった現代日本というのは人命至上主義なので容易に死んだり産んだりすることができないのだ。

 

 ではバランス良くクルマは任意保険をたっぷりかけて安全運転で、セックスは特定の相手とだけコンドームを付けるとか性病検査をして低用量ピルを使うとか、なんならガチンコで子作りを試みるとか、そうすればいいのではないだろうか。リスクはバランスが大切だからめでたしめでたし。……とはならない。なぜか。安全運転もセーフセックスも"格好が悪い"からだ。考えてもみよう。ドノーマルのクルマを法定速度で走るクルマは格好いいだろうか。ちゃんとアポイントを取って「今日は夕食後にセックスをします」と宣言したり、あるいはお互いに性病検査に行ってから行うようなセックスがロマンティックだろうか。否。違う。クルマは手際よく法定速度+20キロぐらいで運転するのが、時々県警の世話になっても"そっちのほうが女にもてそう"だし、セックスも、なんかそういう雰囲気になったから押し倒してするほうが時々性病貰って病院行ったとしても"スマートな感じがする"んじゃないだろうか。「それは笹松の偏見です」と仰るなら、ではあなたが予告ありのセックスをしてくださるのですか、という話になってしまう。きっと世界はそういうふうにできていない。

 

 とはいえ美人と生セックスできるならリスクは承知の上ですよね。少々勇み足になって相手が妊娠してしまったとしても、相手に種付けできてしまったという最上の幸福を味わえるわけで、プレイの一環として受け入れられる素養があればそのまま入籍すればよろしい。どうせ人生なんてそういうプレイの一環で死ぬまでの暇つぶしである。しかしながら世には"安全日"という言葉があり、どういうわけだか排卵日翌日ぐらいから生理が来るまでの間を指していうそうだ。卵子排卵されてから1日ぐらいしか受精する能力がなく、また、精子が子宮内に入ってきても子宮内膜が剥がれて、いわゆる生理で一緒に流れ出てしまうからという理屈で、そういう期間を安全日と俗にいうそうな。しかしながら、受精は卵管部分で行われることが多いし、卵管部分は子宮内膜が張らないので、あんまり興奮しすぎて予定外に排卵する*1と受精はするし、剥がれかけの子宮内膜にギリギリ着床できてしまうとめでたく妊娠ということになるので、膣内射精は覚悟を決めるか、さもなくばピルでも飲んでもらうかしたほうが"安全第一"ということになる。

 

www.doorjapan.com

 ちなみに、上記webサイトで適当に生理日を放り込んで結果を見たところ、生理後も数日は安全日として表示されたが大変危険であることはご理解いただけただろう。子宮内を生理で洗い流し終わってさあ次の着床用フカフカベッドである子宮内膜が出来始めたところへ精液をどんどん流し込むわけであるから、何かの手違いで数日早く排卵されたら当たり判定となる。

 

 とはいえ、きっと、生セックスって気持ちいいから人間が絶滅しないんだろうなあ。

 

 膣内射精してえ。

*1:ガバガバ生物学なので実際はそんなことないと思う