新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

初心者マーク

 正式名称「初心運転者標識」、俗称ヘタクソマーク*1とも言われたり言われなかったりする初心者マーク。大抵の場合は教習所卒業時に記念品としてもらえたり、あるいは自分で買ったりするのだろう。私は前者だった。郷里の教習所に実家から自転車で通い、MT5速のLPGコンフォートをまるでタクシー運転手にでもなったかのようにゴキゲンな讃岐路ドライブを2週間ちょい。「今、何キロ出てる?」「80ですね」「ここの制限速度は?」「50マイル*2ですかね」などというやり取りがあったかないかはご想像におまかせする。

 

 しかして、初心者マークは「免許取得後」1年間の掲示義務があるものの、それ以後の掲出義務はない。私は2011年の8月に自動車学校を卒業してから、教習所コンフォート以外のクルマをまともに転がすのは2015年の冬まで待たねばならない。従って私は公道上で初心者マークを掲示したことがないのだ。道路交通法に従えばなんら問題はないが、一抹の不安はあった。とりあえず親に免許を取らされたは良いが、携帯の契約ぐらいにしか使わない高価な高価な本人確認書類が一枚増えただけであった。

 

 とは言え、良くわからない田舎に住んでみると、高い金を払いながらも自動車を持たねば文化的な生活ができない。「何もなさすぎる」とはよく言ったもので、たとえ県庁所在地の中心市街地に住んだところで、ニトリもホームセンターも、デカい本屋も郊外のバイパスに沿って展開中である。道が狭い中心市街地を活用だ、コンパクトシティだと言っても生活必需品は郊外に出ねばまともに揃わぬ。何がコンパクトシティだ。お題目だけ唱えてどんどんドーナツ化。狭くて家賃の高い中心市街地ではなく、クルマの運転がしやすい郊外の市街化調整区域に建ったサブリースの築浅アパートのほうがよほど暮らしやすい。ま、昨今の住宅供給過剰でサブリース業者に騙されて残酷に泣いている大家もそれなりに居るのであろうが。

 

 

 初心運転者標識とは別に75歳以上の運転者が掲出する高齢運転者標識というのもあるが、あちらは罰則規定が今のところない。罰則規定とか制度上、政治上のあれこれを申し上げるのは別の人に任せるとして、問題はマークの耐久性だ。初心者マークと違いこちらは掲示期間が1年以内ではないためか、色あせてしまっている高齢者運転標識をつけたクルマが多く見られる。色あせるほど掲示が長期になることを想定していなかったのか、はたまた単に制度製定時にそこまで気にしていなかったのか、後者だろうなあと思う。

 

 

 初心者マークをあしらった女性用下着があったら面白いなあと思った。

*1:と呼ぶのは私の父だけかもしれない

*2:1マイル≒1.6キロ。つまり50マイル/時は80キロ/時ということになる

承認欲求を大切に

 今日は題して「承認欲求を大切に」です。別にご自身の承認欲求を大切にしろ、と言っているわけではなく、自分以外の承認欲求を大切にしてあげると大変生きやすいですよというのが本日の結論です。弊ブログは良い文章を送り出すため、結論から言うことにしている日があります。今日がその日です。

 

 さて、皆様それなりに人生経験はおありと存じますが、長い人生の中で一度くらいは「せっかく○○してあげたのに!!!!」「お前のことを思ってやってんだよ!!!」等とキレられたことがありませんか。……ないですか。そうですか。じゃあ、あなたの周囲は承認欲求がない人間で埋め尽くされていたのでしょうきっと。まあそんなことはなくて、大なり小なり上記のように感情を露わにされた経験があるのではないでしょうか。別に恋人間での痴話喧嘩に限りません。「せっかく夕飯を作ったのに殆ど手を付けないなんてどういうことだ」と母親の機嫌が悪くなるとか、「せっかく一生懸命授業をしているのに居眠りしやがって」と教師の機嫌を損ねてしまったりとか、これらも「一生懸命に作った夕飯に対して美味しいと言って欲しい、せめていっぱい食べて欲しい」という欲求が満たされなかった、だとか、「せっかく長い時間かけて教科書を読み込み、授業で扱う問題も精選し、教材も作ってきたので取り組んで欲しい」という欲求が満たされなかった、という点に起因します。承認欲求というと、何かしらの作品を創るクリエイターだとかが常に評価を求めて消耗している様をイメージしがちですが、必ずしもそうではありません。というより、大なり小なり、どのような人間も、承認欲求を抱えていると思えばよいでしょう。本当に無償で、対価も評価も要らないけれど、何かしらを施してくれる人が居たら詐欺師ではないかと疑いましょう。タダより高いものはありません。

 

 谷川流涼宮ハルヒの憂鬱」作中にも、キョンが夕飯を数日続けて外食したため、「そろそろ母親の作った食事を摂らないと機嫌が限界だ」というような表現があった気*1がします。即ちこれはいちばん身近な承認欲求であるところの、母親が「母親であるという役目をきちんと果たしていることを評価されたい」という欲求を満たさないと、そろそろ機嫌がまずいことになる、というのをキョンが理解しているという意味です。従って、ご飯が出てきたら「ありがとう、おいしいよ」と言い、着替えが洗濯後に畳まれていたら「ありがとう」と言えばいいのです。当然、棒読みではなく、接客業的なホスピタリティにあふれる笑顔で心のこもった言い方をする必要がありまして……というのは、読者諸賢にとっては自明のことと思いますが、身近な家庭で処世術を養えると思えばこそ、いい習慣となるのではないでしょうか。なお、相手が母親ではなく父親であっても、あるいは兄弟、友人、恋人であっても、「(いつも)ありがとう」のひと言に感情を乗せられるかどうか、ただこの1点が人間関係の分水嶺となってしまうことも少なくありません。なお、場合によっては、親の承認欲求を満たすために、テストの順位がどうであるとか、模試の成績がどうであるとか、行く大学のレベルがどうであるとか、成績だけではなくオベンキョに対する態度がどうとか、そういうことも求められる場合がありますが、独立するまでの辛抱ですから付き合ってあげましょう。機嫌を取る(≒扶養していただいていることへの"感謝"をしている演技をする)だけで扶養して頂けるというのは、生まれた家で、独立までの期間限定でしか味わえない境遇かと思います。専業主婦・主夫にでもなればまた話は別でありますが……。

 

 とまあ、このように、感謝の言葉に心を乗せるという演技スキルが高くなりますと、どちらへ赴いても邪険に扱われることは少なくなります。よく、接客業をしているとクソ客が、などというお話を見聞きすることとなりますが、逆に優良顧客としての振る舞いを演技するだけで、顔を覚えてもらえたり、有利な取り計らいをしてもらえたりすることが増えて大変オトクです。当地に越した際も、近所のスーパーの店長に早々と顔を覚えられてしまったような気がします。おそらく気の所為です。あちらの店長スキルが高すぎて、お客さんの顔を覚えましたよと顔をみたら満面の笑みでいつもありがとうございますと言うようになっているのです。そう、こちらの承認欲求が満たされる時、相手の承認欲求を満たされる……Win-Winの関係が、そこにはあるのです。承認欲求というのは、渡した分が目減りするゼロサム・ゲームではないのです……!

 

 承認欲求をやりとりする最も本質的な行為がセックスです。男女(とは限りませんが、簡単のために一度こうさせてください)の間で承認欲求をやりとりをし、その欲求の形は、感じている演技であったり、練りに練られたデートであったり、最も単純に貨幣であったり、あるいは、枕営業であったりと様々な思惑が複雑な形で渦巻いているでしょうけれど、一方的に損得が発生する関係性は長く続かないという点でお察しいただけるかと思います。鰯の頭も信心から、はじめは感じているという演技で能動的に喘ぎ声を出していても、いつの間にか子宮で感じる肉棒の硬さにどこか嬉しさを感じるようになるかもしれません。そんじょそこいらのキュレーションメディアとは違いますから断言はしませんが……。私は性的なことを嫌悪する女性よりも、演技であってもえっちな顔で誘ってくれる女の子のほうが好きです。

 

 家族という身近な人間間ですら承認欲求が渦巻くのですから、新興宗教のカリスマ教祖というのは相当な承認欲求に応え、心の隙間を充填することができているのでしょう。そして、信者の崇拝で自らの承認欲求も満たし……あらあら、新興宗教の構造すらも承認欲求で説明がついてしまうのでしょうか。少々乱暴な気もして参りましたが、人間を堕とすならば承認欲求から、単なるやりがい搾取はもう古い、これからは承認欲求を満足させつつ搾取をしてくるスタイルが流行ります。だからこそ、安易に承認欲求を充足させてくる相手には気をつけましょう。特に、不倫だとか浮気だとかは、現状の配偶者や恋人が満たしてくれない承認欲求を上手に埋めに来ることでしょう。自分の心の隙間を把握して、正しい相手に「ここを埋めろ」と直接要求するか、あるいは自分で埋めるかできる人間になりましょう。

 

 

 だから私は膣内射精という形で承認欲求を充足したい。

*1:たぶんあったはず。各自どこかで読んで補完してください。

ちょいブス巨乳

 今日のお題は酷いものである。「ちょいブス巨乳」である。この語句はなかなかに深みがある。まず前半。「ちょいブス」である。もはや説明は不要であるがあえて説明するとすれば、ブスというのは減点法の語である。ところがぎっちょん、"ちょい"ブスとすると、途端に意味が曖昧になってくる。「10分前」だといまから600秒ぐらい前の話なのに、「9時10分前」だと8時50分なのか9時9分ごろを指すのか曖昧になるような感じである。一部地方だと「9時前10分」という口語でもって8時50分を示すそうだ。あまり馴染みのない言い方だけれど、あいまいさを回避するという意味で生まれた表現であろう。従ってブスだと目も当てられない感じに顔のパーツの合いが絶望的であろうけれど、ちょいブスともなれば美人とはとても言えないんだけど惜しい感じになる。ブスが朝3時、美人が正午とすれば「ちょいブス」は11:45頃、みたいな感じ、と言えば良いだろうか。従って、人によって意味合いは変わるであろうけれど、「ちょいブス巨乳」という文脈において私は「11:45頃の顔」を提唱する。異論は認める。美人は3日で飽きるとか、ブスは3日で慣れるとかそういうのはあまり好きではない。毎日新鮮に暮らさないとマンネリ化してしまうからだ。「あいしてる」「いつもきれいだね」「うーん、最高」「ええんやで」「おっぱい」、これが毎日を円滑にする魔法のあいうえおだ。今日からフリー素材として使ってよろしい。

 

 続いて「巨乳」である。実部と虚部の話ではなくて巨乳の話だ。貧乳のほうが曲率半径は大きく鈍角であるから、自然な曲線を描くとすれば虚乳部はとてつもなく大きいという理屈はあれど、絵に描いた乳は揉んだりすったりできないので却下だ。ここでは実乳のみを扱う。複素乳平面は指導要領に含まれない。とはいえ、巨乳という語の概念もまた曖昧なものだ。Aカップを巨乳と言うかどうかはともかく、Cカップを過ぎたあたりから巨乳と認める人間の割合が有意に増えるように思う。高校時代、ラスベガスみたいな名字の同級生は、火災報知器のランプを手で揉み、「Dカップ」などと寝言を抜かしていたが、あながち彼のサイズ感は外していないように思う。そう、Dカップくらいでは軽率にパイズリができる二次巨乳には及ばない。ブラを外せば谷間は曖昧。そもそもおっぱいというのは脂肪以前にほとんど水である。水は低きに流る。そう、どれだけブラ上で大きなおっぱいも、仰向けにゴロンと寝てみれば、まるでホットプレートにホットケーキミックスを流したようになってしまうのが物理法則というものだ。非常に残念がる人も多いだろう。まあ絶望せずに最後まで話を聞け。物理法則というものは裏切らない、従って逆におっぱいに四つん這いになってもらって下から吸えばよろしい。今度は重力を味方につけてさながらウシチチのように大きな質量感のあるおっぱいが上からぶら下がっている状態となる。感動だ。同じ素材も料理方法で満足感が得られたり得られなかったりする。もったいないことはよくない、せっかく吸えるおっぱいがあるのだから少しでも質量感で満足しよう。セックスはお互いが満足できるのが一番であるからしてもらいたいことは言ったほうがよろしい。

 

 ここまで長々と書いたけれど、ちょいブスかどうかよりいい匂いがするかどうかのほうがよっぽど重要だし、吸えない巨乳より吸える貧乳という構図は覆らないから、今日明日とつぜん巨乳女に恋人があっさり奪われてしまったりはしないから安心して欲しい。……たぶん。新自由主義のもとに自由恋愛市場ではダメっぽくなったら次の相手をキープしつつシームレスに乗り換えるというのも多くあるわけだから安心はできないが。離婚率が3割じゃ結婚も引き留めパワーに欠けるということか。なんにせよ、おっぱいは若いうちにたくさん吸われておいて欲しいし、私も若いおっぱいをいっぱい吸いたい気分だから、功利主義的に世界が幸せになるためにみんなセックスをしてほしい。そこに私が不在でも構わないから市場が活発になってくれることが一番である。いくら需要があっても供給が絞られちゃうと市場が冷えちゃうからね。

 

 ビキニ着せたまま谷間にちんちん突っ込んで遊びたい。

5000兆円欲しい

 しばらく意識が明後日の世界に飛んでいた。別にルンバに拉致られて南半球へ連れて行かれていたわけではない。かつてはただただ欲望を書き連ねるだけで記事が出来上がったにも関わらず、筆が進まなくなってしまったのだ。即ちこれは無欲の境地に達してしまったということか。解脱である。プシュケーか。99割寝ていた高校倫理の教科書に出てきそうな単語を並べてみただけだ。人間は考えるアホである。兎に角、自分のことが好きで好きで仕方ない美少女に好意をまっすぐぶつけられてその日のうちに裸で抱き合うような、そういう欲望の灯火も消えたわけではないが、もしそういう欲望が達成された後の「いま抱いたこの美少女の保護者はどんな人なのだろうか」「この美少女を扶養しなければならないのか」「籍を入れるにしても会社に届け出るためにはこの美少女のマイナンバーを調べなければならず、結局住民票を取らなければならない」「いやむしろ今の給料じゃ無理だからクルマを手放さなければ」と、万が一、いや、億に一つもないような都合のいいケースに至ったとしても、背後の不安が拭えない身体になってしまった、というべきか。こう言うと大変不遜になってしまうが、世は自分よりもそのあたりの手続きができないようなアホですら生きられるようにできているからあまり憂いはないのだが、とはいえ出たとこ勝負でうまく回るかどうか、不安材料が多いことには安心して欲望を出しきれないところがある。わかりやすく言えば、好意をまっすぐぶつけてくる私好みの美少女を次の生理までに孕ませるのに不安があるから心の底から膣内射精できない、ということである。

 

 そこで今日の表題である。「5000兆円欲しい」がテーマである。5000兆円。すべて1万円札であったとしても2トントラックで数十台、いや足りぬかも知れぬ。毎年1兆円ずつ使っても5000年分である。5000兆という、有限の数字がついてはいるが、事実上の無限円である。天文学では無限遠という言葉が出てくるがそういうことだ。つまり、金で解決できる事柄の心配が不要になる、シンプルに申し上げれば一生金に困らなくなるということだ。

 

 とはいえ、現実問題として、毎月の手取りが前職より少々増えたとて、足車としてATの乗用車と、遊び車としてMTのロードスター、それに物を運ぶクルマとしてハイゼットカーゴかプロボックス……とか言いながらクルマを3台持つわけにはいかず、現実問題として最大公約数的に日産キューブなんぞに乗っているわけであるし、田舎から東京に出る電車賃すら困窮して出せぬ有様というのは一朝一夕にどうにかなるわけではない。明日枕元に500万円積んであったとしてもそれは端金であり、一生金銭的な苦労がどうにかなる金額ではない。

 

 とはいえ、金銭的な苦労はさておいて、多額の金銭の出費が絡まない人生の選択肢において、先だってのテーマである5000兆円というのは大変揺らがぬ指針として使えるのである。何かしらを選ばなければならない時に「それは5000兆円持っている場合の選択かな?(ポロロン」と、一度脳内で自問自答するのである。なお、"多額の金銭が絡まない選択肢"というのは、単純に、無い袖は振れないからである。

 

 なんだっていい。休日に惰眠を貪っていつもよりかなり遅い時間に起きて後悔するか、寝足りない気はするものの二度寝せずに起きるか、5000兆円持っていれば絶対に後者である。金を使いたくて使いたくてたまらないわけだからだ。あるいは……と考えたところで、お金が絡まない選択肢というのはほとんど存在しないことに気づく。2,000円かかる回転寿司か、280円の牛丼で済ませるか。3万円払ってソープランドに行くか、ソープランドの出勤表を見てタダでシコるか。MVNOに契約を変えて毎月2,000円で昼休みとアフター5にイライラしながらスマホを使うか、毎月8,000円払ってMNOでストレスなくスマホを使うか……なるほど、金が潤沢にあったら悩まない選択肢ばかりだ。これは驚いた。自分でも無意識のうちにカネがないからと選択肢を減らしていた気がしてくる。しかし、大切なことだからもう一度申し上げるが、無い袖は振れない、のである。

 

 そうすると最終的に5000兆円が欲しい場合は5000兆円持ってる女性に選んでもらうのが近道になりそうだ。5000兆円で結婚してくれと言われれば最上である。自分を5000兆円相当へ。仮に5000兆円持ってても結婚して欲しいと相手に言わせれば勝ちである。対極にあるのは、愛はないけどお金は必要だから離婚しないでいるタイプのアレである。専業主婦になって離婚できずに後悔しているから娘は絶対フルタイムで働かせるというタイプのアレだ。お金を稼いでこなくなったら楽しいスピードで離婚の事務手続きが進むであろう。

 

 5000兆円あったらラブホに入るかどうかで悩んだりしなくなるんだろうなあ(反語)

湾岸戦争

 今日のお題湾岸戦争。父が湾岸戦争モノの映画ばっか観ててねえ、というのはさておき、単純に交戦勢力をA vs Bの形で並べた時にイラク対"ほかの国"という、仮に自分が傭兵だったならばどちら側に雇われるかは火を見るよりも明らかなアレでございました。ソビエト連邦ですらアメリカを支持するというアレっぷりがすべてを物語る。多勢に無勢とはまさにこのことだ。近年の戦争であるためカラー写真が豊富に残っており、米戦艦ミズーリからトマホーク*1が打ち出される様は圧巻である。あんた戦艦大和と同期みたいなもんじゃねえっけ。B-52じゃねえけどバケモンかよ。太平洋戦争でボコボコやりあった船が91年にトマホークを発射している。実に意味がわからない。

 

 戦争というのは外交手段の一つであって、戦争に至らぬまでも、戦力の保持は外交上大切なことである。これは個人レベルでも適用できる話であって、会社で退職者が出た場合に「貴重な戦力が抜けてしまって」などと上司から(お世辞でも)惜しまれつつ言われる何気ない言葉にもばっちりと"戦力"という単語が入っている。別に戦車と艦艇が戦力というわけではない。ただし、なんでもかんでも戦力と言うわけでもない。単純な現金保有力は「財力」だし、学歴を指して戦力とは言わないし、おっぱいも「武器」であって戦力とは言わない。ともにたたかう、自分と同格の存在を指して適用できるのが戦力という言葉か。するとやはり能力を持った人を指して言う、のが自然な流れではあるか。能力と言うのは武器とも言う。武器をたくさん持った人が味方に付けばそれはもう戦力である。将棋に関する慣用句も多いが、戦争に関する慣用句も相当に多い。

 

 股間の武器でドスケベ危険日妊娠前提特濃おちんぽみるく現金満タン膣内射精したい。

*1:データを打ち込んで発射できるミサイルって両津勘吉が言ってた

おきらく一人旅(入試)

 しばらく書かないと自然にブログの執筆から離れてしまう。違うのだ、寒いのが悪いのだ。コタツを設置し厳寒期もぬくぬくと過ごすのはいいが、デスクトップパソコンをコタツに移設するのはよくなかった。ディスプレイというのはすこし見下ろす形に設置すると首や目への負担が少ないが、コタツに28型のディスプレイを設置すると見上げる形となってしまう。しんどい。したがってコタツの向こうにみかんの箱を設置し、目線は自然と下へ向くようにしたが、こんどは遠くて活字を追うのが厳しい。フォントサイズを大きくしたり、いろいろ試したがしっくり来ない。厳寒期に灯油を買うカネもない低所得者であるから、暖房する領域が区切られており、暖房費が低廉に抑えられるコタツを使うことは我ながら慧眼であったが、しかして、ノートパソコンを持っていないせいで、活字を追う活動から離れてしまったのもまた事実。次に何かしらの収入があったらノートパソコンが欲しい。いや、それより前に望遠レンズだ、冷蔵庫の買い替えだ、カメラのストラップも買い替えたい、ドラレコは買った、ETCは……と物欲は尽きないが、入ってくる賃金というのは年末調整ぐらいでしか変動しないのですべて先送り。そうこうしているうちに冬は去り、いい加減デスクにデスクトップパソコンを戻しても下半身は寒くなかろうという時期が到来したので適当に下書きから掘り起こしつつリハビリを兼ねて書くことにした。なにせ原稿の依頼まで舞い込んだため、ここいらで筆とペニスを折って入院して……などという茶の濁し方ができなくなってしまった。どうでもいいけど濁ったペットボトルのお茶は捨てたほうがいいぞ。入院するハメになるらしい。

 

 大学入試に親が着いてくるか、という話がある。昨今では過保護な親が泊りがけの入試に着いてくる、一体どうなっているのか、という言説である。とはいえこれには子供が自立していないわけではなく、どうも「親が子離れ出来ていない」ケースが多々見受けられるので、受験生本人に責はない。……と思う。一人暮らし開始の際だって、不動産の手続きにすら親が来ず、入居3日目に「手伝い」と称してようやく父親が来てくれた程度にあれこれ任された身としては複雑である。不動産の手続きは、といえば、さすが学生街の不動産である、書類は実印での割印が必要な箇所を指示して保証人宛に郵送して対応するという。「浪人生ですか、いやあ、しっかりされているので」などと客を褒めることも忘れない、良い不動産だったように思う。まあさておいて、とにかく、他所は知らないけれど、少なくとも私の場合、入試に親は着いてこなかった。大変気楽である。世のひとり出張サラリーマンの気分だ。のちのち、まっとうな社会人をやっていた頃にひとりで出張したことがあったが、現地で取引先にお邪魔するまでの間はお気楽そのものである。移動が苦にならない人種に出張、猫に鰹節、鬼に金棒、女子高生に8×4である。

 

 とまあさておいて、東急東横線日吉駅まで、讃岐の国から入試に向かうときのお話。当然距離的に前泊であるから、行きはANA高松空港から夕方の羽田行き。これは良い。問題は帰りである。終了時刻はわかっているが、不測の事態も想定される。時間が読めない。そこで帰りは遅めの時間で新幹線を取っておく。JRの特急券は1回に限り無料で乗車変更ができるから、用務が早く済んだ際は窓口で早い便に変更すれば良い。ただし、飛行機のオープン航空券のように、乗り遅れたから後の便に変更、というのはできない*1。手持ちのきっぷの発車時刻までに窓口に行かねばならない。なお、当然のことながら、早い便が満席の場合、座れるかどうかの賭けをして自由席に替えてもらうか、適当に時間を潰して本来の便に乗るか、になる。いずれにせよ、最大公約数で遅い便の指定を取っておくと選択肢が増える。最悪でも手元に席はあるわけだから、街に出て観光をするなり、本を買ってカフェに入るなり、あるいは入試会場でギリギリ女子高生な少女をひっかけてラブホへシケ込むなり……人生の選択肢は、つねに、なるべく、多く持っておくというのが四半世紀生きてきて得られた経験だ。

 

 入試の日程は半年も前から承知であるから飛行機に関しては片道1万円と少しで手配ができた。ホテルは新横浜の東横インを押さえ、帰りの新幹線も手配ができた。あとは当日、問題を読んでどれだけアタマが回転するかに掛かっている。8,000回転までキッチリ回せ。レッドゾーンに突入だ。脳みそはブドウ糖しかエネルギーに出来ないらしいが、そこは人間の歴史と人体の神秘がうまくしたもので、いわゆる糖質というのはブドウ糖が長く長くつながって出来ており、コメやらパンやらを食べると胃酸で単糖類に分解されて吸収されるそうだから何も試薬一級のブドウ糖を試験会場で食べる必要はないのである。

 

 羽田空港に降り立ち、真っ赤なカラーの京浜急行新逗子行きに乗る。もともとが空港アクセス専用というわけではないためか、途中の小駅にも止まりつつ、列車は横浜へ向かった。横浜で降り、西口のダイエーで化粧水やらカミソリやらを買い込む。かさばるものは現地調達。飛行機に安全カミソリを持って乗れるのか知らなかった*2し、降機後にターンテーブルで待たされるのが嫌で基本的に荷物は預けないから、というのもあるけれど。新千歳でサークルの後輩に「先輩、預け荷物を受け取り忘れているのではないですか」と突っ込まれるようなボストンバッグひとつで数日旅行するけど、旅慣れた人間はおおよそ荷物が少ない。

 

 話がだいぶ脱線した。当時既に一浪であったから高校生ではなかった。高校生ではないということは大手を振ってエロ本が買えるということである。従ってダイエーからメロンブックスへ直行した。エロ同人を物色し、厳選5冊を抱えて東横線に乗る。東横線東横インに向かう。フフッ。東横インの東横、とは東京と横浜の間にある蒲田に建てたという意味なので、まったく関係ないのだがまあよい。横浜線に乗り換えて新横浜に到着。一旦チェックインして荷物を置き、腹ごしらえをして再びの駅前。するとロータリーに面してブックオフがあるではないか。なんと明日が入試であるというのにアホが「いちご100%」を読みに吸い込まれていった。アーメン。いや、どちらかと言うとザーメンか。エロマンガの写植で見るとザーメンって興奮するけどリアルに音声で聞いてもあんまり興奮しねえなあと思うのは個人の自由だと思う。

 

 とまあ、親の目の届かないところに行くと人間ここまで自堕落に過ごせるものだと感心してしまう。ファッキュー管理教育。そりゃあ全寮制とか男子校とかそういう規律戒律に厳しそうな教育をしてくれそうな学校も出てまいりますわなあ。とはいえ成績で事実上行く学校が決まってしまう四国の田舎に比べれば、好き放題私立高校選べる都市部は恵まれてると思うよほんと。まあ男子校に行くのはみんな大好き自己責任の範疇なのと、人生や歴史に-IF-もしもルートは存在しないので、時間巻き戻しの理論が提唱されるまでは過去を悔やむのはやめましょうねえ。よく言うでしょう、「買わずに後悔するより買って反省」と。世に求められるのは機会逸失の後悔ではなくサンクコストの反省なんです。本質的には同じだけどネ!高校生のうちに高校生相手に生セックスできなかったことを後悔するのクヨクヨ系で男らしくないけど、反省してカカオトークで今から女子高生引っ掛けて食べに行くのはお巡りさんこっちです。田舎で出会い系サイトの掲示板を覗いても個人デリヘルみたいなのばっかりで落胆しちゃうね。個人タクシーかよってレベルで個人デリヘル、ただしこちらが車を出して人妻を迎えにみたいなそういう危ない橋ばかりで参ってしまう。当然そんな危険な女に手は出さないし、サイトに課金したりもしないのだけれど、インターチェンジのそばにあるエロビデオ屋には出会い系サイト各種の課金カードが売られていて文化の違いを見せつけられる。出会い系サイトのベテランになると「スタービーチは良かった」らしいけど、今じゃぽっちゃり系で容姿に自信なしのくせに「条件あります☆」とかほざいた……やめとこうか、そういうアホらしいのに手を出したりはしていません。断じて。お金がもったいない。

 

 で、入試会場で"まだギリギリ"女子高生を持って帰れたのかって?んなもん聞くまでもないでしょうよ、日吉の駅まで出るのも一苦労の退場制限を食らうわ、受験生の大多数はまだまだ入試が残っててそれどころじゃない顔してるわ、そもそも受験生は睡眠不足で肌もボロボロで食べる気が……ってこれは酸っぱい葡萄理論になってきた。きっと女子高生は美味しいのだろうって思っておかないと女子高生が値崩れするからそういうことにしておこう。それがいい。

 

 うっかり妊娠しちゃった女子高生ってガチ生☆種付けセックスしちゃったってことだよね。

*1:今でも乗り遅れてからの変更ってできるんだろうか、私は経験がない

*2:安全カミソリや電気ヒゲソリは機内持ち込みできるらしい

教室と国家

 今日のお題は「教室と国家」であった。何かしらの有名なフレーズだったらば、知らずに駄文を書くと無教養がバレるため、一応検索をかけては見たが引っかからなかった。従って教室というのは国家の縮図である、とりわけ義務教育の間はその傾向が強い、という論調で話を進めていくことにする。

 

 自我も体力もついてきて生意気な中学生どもが集められた公立中学校の教室を想像してみよう。ただしこの時点で一部のお金持ちな上澄みは私立や国立のお受験が必要な中学校に抜けていることに留意が必要である。そう、公立中学校の教室というのは上から1割ぐらいの上澄み層を取り去ったあとに残った9割の国家の縮図である。下から9割、である。そのうちおおよそ日本語が通用するのが半数くらいか。公立中学校の教諭というのは何かしらの血迷った情熱で駆動しているからか、日本語が通じない半数をどうにか押さえつけ、卒業まで警察にパクられないように様子を見つつ、という基本スタンスで日々を過ごしているように思う。たいへん頭の下がる思いだ。思うに、公立中学校で3年間過ごすと、その後世に出てから市井の者どもに対して過度な期待を寄せなくなるし、まかり間違っても下から9割を相手に消耗せねばならない接客を含む業種に就こうと思わなくなる、気がする。卒業時には既に妊娠してる同級生が居たり、他所から転校してきたヤンキーっぽいのが既存のヤンキーにやられて光の速さで不登校になったり、美人のセンセが産休で引っ込んでる間に来た、いろいろと微妙な講師が生徒にイジメられてココロの病気で休暇に入っちゃって自習になったりと、社会の悪を煮詰めたような事象が次々と起こるので退屈はしないが、日々生存が脅かされている感じの中で生きることになる。

 

 というような教室で過ごすと、国家とは、という思いもなかなか愉快なものになる。正義とはなんぞや、常識とはなんぞや、高校中退がなんぼのもんじゃいという世界と、大学出だけで出来ているようなハイソなコミュニティとでは断絶がある。ところがその断絶をもやすやすと同じレベルで話ができる事項がある。セックスである。セックスに学歴は必要ない。そこにあるのは往々にして2人以上の人間だけである。人種の壁も民族の壁も存在せず、ただただ肌を合わせて快楽を貪るという原始的な行為は食う、寝ると並んで学歴を問わず必要とされる。

 

 教室でも国家でも、基本原則として平等の建前がある。当然、金持ちの子も貧乏人の子も、イケメンも不細工も平等なのであるが、義務教育が終わるとひとつだけ平等ではなくなるものがある。学力だ。高校以後の教育課程で、人は概ね学力によって振り分けがなされ、入学時点での学力は概ね均質となる。その後もまた大学受験が控えており、ふたたびその場面での学力を検査し、ふるいにかけることが大手を振ってまかり通っている。これはなぜか。合理的には、いくら学校が広く学問をひらいていても、設備には限りがあり、一定の教育水準を保証できないから、とされる。「一定の教育水準」のためには万人に平等でなくなってもその場では仕方のないことだ。

 

 似たようなものがある。おまんこだ。よく「イケメンばかりが得をしている」という言説はあれど、供給の主体であるおまんこの側からしても、まったくキュンとしないちんこにマンコサービスを提供した結果、濡れない、抱かれたくない、マグロにしかならない、演技をする気も起きないとなっては本来のまんこポテンシャルを発揮できないことになる。適材適所。まんこは濡れるちんことマッチングするべし。ちんこも勃つまんこを相手にすべし。演技はすぐ限界が来る。本心から相手を気持ちよくしたいと思えないと、途端にボロが出て関係が破綻するだろう。ちんこ、まんこともに競合相手を自覚してこそはたらくのが市場原理である。とはいえ公共サービスではないから、サービス相手を選ぶのも自由。打算と妥協で均衡する場合もあるように思う。顔は良くないけどフェラチオが絶品であるとか、ピルを飲んでいて中出しOKだとか、他より多く稼ぐだとか。市場原理で一番怖いのはマーケットの参加者が減ることである。東証を見よ。すっかり市場が冷え切ってしまった。市場自体の魅力が失われると急激に参加者が減る。一攫千金を目論む気持ちを、射幸心を煽っていかないと早晩まんこちんこ市場は廃れるだろう。市場が廃れれば意図せぬ金額での損切り・投げ売り・買い叩きが横行し、悪意のある人間のみが儲かるシステムの出来上がりだ。

 

 とはいえ、相場はこの世の幻想郷。自分の目の前にだけ、ありえないほど有利なまんこが現れることすらあるだろう。だからギャンブラーは退場せずに借金してでも、次こそは、次こそは取り返すと息巻くのである。

 

 

 株や先物で大損して再起不能になる人は損切りが下手くそな人です、と古事記にも書いてある。