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新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

始業のベルは誰がために鳴る

 どんなに長く感じる夜もせいぜい13時間ほど待てば日は昇るし始発列車に運転士が乗り込んで仕業点検をするのである。白色の車側灯が光っている独特の光景は早起きしないと見られない光景でもある。

 

 平日が営業日の会社に勤めると有給申請が通らないかぎり平日の決まった時間には朝礼に出なくてはならない。ひとしく朝が来る。たとえ寝不足で2時間ちょっとしか寝られてないアホな私に対しても、である。そのうえ時事ネタでちょいとトークする必要がある感じの朝礼当番だったりするから起きて間もない脳みそをフル稼働である。上司が話の通じる良い人だから救われてはいるが、そうでなければとっくに会社をやめている。時間が来れば仕事がある。始業のベルに救われているのだ。始業のベルというのは皆に等しく仕事を与える。

 

 何事も「誰のために」「誰が」「何を」するかというのは重要なファクターである。一般的にこのギスギスした21世紀の今日では自分のために施しをするのは自分であることが非常に多い。歳末たすけあい月間。いまはどっちかってえと新年だけど。それでも1月終わっちまうよ。ああ1月よ、たった31日で逝ってしまうとはなさけない。ところが自分一人ではどうにもならないこともある。主にセックスである。これは相手を必要とする。別に相手が必要なことならば会話でも良いのであるが、あれは施しとか奉仕には程遠い。コンビニのレジで「これと普通のファミチキください」「747円です」というのも会話である。ファミチキを買わなければ会話が要らないのである。あと3年ぐらいしたらコミュ症対応で揚げ物ケースのところにファミチキの写真とバーコードと値段が書かれた引き換えカードが用意されるかもわからん。本格的にコンビニ無言買い物時代の到来である。

 

 あなたの居場所を用意している存在がある、ということを考える。居場所というのは自宅であったり職場であったり、だいぶ貧乏するとドヤのお部屋だったりネットカフェだったりするわけだが、とにかく居場所が用意されているというのは施しであり奉仕である。大抵は家賃という金銭を対価にして居場所を得るのであるが、職場だったら提供するのは労働であり商品であったりする。では、対価なしに居場所を提供する存在というのは考えられないのであろうか。

 

 そんなことはない。一般に*1膣内射精して子供を作った親という存在は対価なしに子供に居場所を提供する。世には老後の面倒を要求したりとかそういう向きもあるそうだが、一般に*2親は子供に対価を求めないし、子供も親に対価を支払おうとはしないわけである。無論、親は一般に*3子供が健康に育つことが喜びであり子育ての醍醐味であると言ってくれるからじゃあ自分の足で立って歩いてみようかなぁと思ってみたりするわけで、何につけてもやったらやっただけ褒めてくれる親という存在は貴重である。

 

 褒めて伸ばす、というのはあながち間違っていないと思う。仮に自分のてのひらでトラブルが起きた時に相談するのは「よく叱られる人」より「よく褒めてくれる人」であろう。なぜなら自分がそうだからだ。自分のヘマを認め、私が悪いのだけれど、でもそれなら叱られる人よりはいつもホメてくれる人のところへ持ち込みたい。会社に入ったら上司が親と同世代だったりして、ひとり暮らししてたりすると親代わりなわけである。色っぽい女上司だったら時々甘えさせてくれておっぱい吸えたりしてな。……ねぇか。あったとしても親世代のおっぱいを吸うのは少々拷問ちっくだ。褒めてくれる上司は誰のために褒めているのかというと結局自分の保身であって、トラブルが快速急行で自分のところまで上がってくるようにふだんから怒らない姿勢を明確にしておく必要があるからそうなっているのかもしれないが、翻って部下の立場からすると叱られないからなんでも相談しましょうねってなるしWin-Winなのだ。誰も損をしていない。上司は上司でダメ部下の言動にストレスを抱えているかもしれないが、そこは家に帰って風俗に行くとか膣内射精するとかしてうまく解消して欲しい。

 

 今では暴食野郎に数えられる私も、幼少の頃は少食であった。食欲がわかないのにやってくる食事の時間は苦痛ですらあった。だから最低限自分の茶碗に盛られた米飯にお茶をぶちまけてかき込むのだ。そして母親に怒られる。「せっかくつくったのにおかずも食べなさい」と。イヤイヤ食べる。そして怒られる。「不味そうに食べるな作る気がなくなるだろう!」と。無論そういうのは幼少期だけであって、中学高校ともなると普通にウマいウマイとモリモリおかずを食べるわけだが、幼少期の私の態度で母はいくつかの料理を作らなくなってしまった。具から作って皮も買ってくるような餃子とか、「市販品もあるけどせっかくつくれる」系統のおかずは我が家では幻になってしまった。3歳5歳のころは本当に食欲がなかったのだが、子供は「おいしいよおかあさん」と発話しながら食事をしたほうがうまい飯が食えるのだとこれほどまでにデカく成長してからようやく理解できた。だから、数少ない自分以外の他者が手料理や手作り弁当を作ってくれて、食べる機会があればなるべく「おいしいよ、ありがとう」と意識して言うようにしているのだが、悲しいかな両手の指で数えられる*4程度しか家族以外の手料理を食べる機会がないため、この戒めは生きてこない。笹松人生哲学にはこういう「死に戒律」みたいなものが多い。

 

 明日はもっと楽しく生きられるように、人は学ぶ生き物であるから少しづつ学習して膣内射精に近づけていきたい。

*1:って書かないと人工授精とかの人に怒られる。ポリなんとかに配慮しているのだ。

*2:育児放棄とかネグレクトとか虐待とかあるじゃん

*3:って書かないと花瓶の腐った水を点滴に入れる症候群とかあるしな

*4:何進数表記なのかはご想像にお任せする