新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

期待と諦観

 昨日、twitterで「他人に対する期待値をどんどん下げていくと他人にやさしくなれる」という自説を提唱したところ、

 

 

 そ、そうですね。確かにそんな気がします……。

 

 他人に対して過大な期待を抱かない、そうして私は優しい優しいと言われてきましたが、どうやら人生一般に諦めていたようです。なるほど。最近では実の父親に「優しすぎる」とか言われて少々凹んだりしましたが、僕は元気です。ということはもう少し他人に期待しても良いのでしょうか。宝くじの当選ぐらいしか期待ができません。人が介在しない確率論にすがるしかないのでしょうか。こういうときに宗教が強い。

 

 人間誰しも否定されたくない、むしろ肯定されながらにして頭をヨシヨシと撫でられたいレベルのことがあります。それは自分の過去です。逆に言うと過去を否定されるのは相当つらいことと相成りまして、当たりどころが悪いと心にクリティカルヒットしてしばらく立ち直れないようなことにもなりかねません。そして、往々にして自分の過去、基礎、地盤、歩んできたコースを否定する存在と出会うことになります。当たり前です。社会は広いのですから自分の予想を遥かに超える存在や、自分とは正反対の存在と出会います。幸いにして多様さをうまく受容することができれば愉快な人生が送れるかと存じますが、不幸にも目の前の存在から勝手に「自らの過去を否定されている」と感じてどんどん歪むことすらあるのも事実。勝手に苦しめと突き放すのもひとつの手ですし、なにより手に負えないのに構っていると痛手となりかねません。

 

 オタク界にはたいへん有名な台詞があります。「認めたくないものだな、自分自身の、若さ故の過ちというものを」 という、シャア・アズナブルのセリフです。逆説的に言えば自分の過去*1を否定できるようになったら大人ということです。ただし、自分の過去は否定できても、他人の過去をどうこうする、というのはなかなかレベルの高いことであって、しかしながらオタクはこういうのが大好物なので手に負えません。

 

 つまるところ過去の自分の期待値の高さを否定することが現状を肯定しつつ精神科の世話にならない自分なりの手段であると考えます。過去の自分の期待値であれば今頃は東京近郊に家買って結婚してて子供が2人居て中の上ぐらいの暮らしをしているはずですから、日々変わりゆく世界の輪郭を的確に見据え、現状に見合った妥協案を自らに提示して脳内で妥結していくのが順当でしょう。

 

 自分はこれまで苦労してきたんだからタダで膣内射精ぐらいできてもおかしくねえんだよなあ←自らの過去を否定できていない一例

*1:1秒前も過去だ