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新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

心に闇を飼う

日記

 千葉で大学生をしていた頃に住んでいたアパートから徒歩で15秒のところに女子中学生を監禁していた学生の部屋があったという。私はその頃、秋葉原で買ってきたエアーダッチ、所謂「空気嫁」にセーラー服やスクール水着を着せてファックしていたわけだから、なんという格差であろうか。まだ件の元学生が女子中学生とファックしていたかそうでないかは定かとならないが、たった15秒の距離で空気嫁相手にヘコヘコと腰を振るか、1人の人間をさらってきて2年間も生命の灯をともし続けるか、これはえらい違いであって人間の格の違いを感じる。

 私は心に闇という化物を飼っている。おそらく彼もそうだったのであろう。そして、ひょうひょうと生きる大多数の人間も、心に闇を飼っているに違いない。その、心の闇が猫のようなサイズなのか、はたまたヒグマのような大きさなのかは個人差があるが、心の闇をうまく飼いならした人間にならねばならぬ。飼いならした闇が大きいほど、どこか人間としての深みが出るように思う。

 私の闇はひとえに「女性に相手にされないこと」であるのは自明の理であって、過去の記事に闇がにじみ出ている。しかし、このブログに乱文書き散らすのは、心の闇を猛虎の姿に変えて、草木も眠る丑三つ時に住宅街を散歩させるようなものであるからご容赦願いたい。あなたがた読者は、丑三つ時に家の扉を開けなければ無事に朝が迎えられる。

 時々、自らに巣食う闇の猛獣に自我を食われてしまう人がある。すると、"彼"のように女子中学生をさらってしまったりするのだ。

 確かに私は女性に相手にされず、長らく苦しんできた。しかしながら、幸いにも男の友人には恵まれ、本格的な苦境となれば、普段の煽り口調を封印して親身になってくれる彼氏持ちの元女子高生な同級生もおり、まったくもって実感はないが、妹や上司には高い評価を頂いているお陰で、おマンコやおっぱいにありつけなくとも、御法に触れることなく生きていられる。

 

 それでも、時々は、下半身から湧き出る「女体に腰を打ち付けたい」「種付けファックがしたい」という欲求を御法と財布に負担をかけずして解消せねばならない。そこで、右手でシコるより腰を振ることができ、なおかつ風俗より安い、エアーダッチ、所謂「空気嫁」を買い求めることとなる。単なるエアーダッチでは服を脱がせる臨場感が不足となるため、適宜スクール水着やセーラー服を着せて遊ぶのだ。こうして、自らの心に巣食う猛獣を、まるでトラ猫レベルにまで飼い慣らすことができる。

 心の闇など抱えていないほうが良いに決まっている。しかし、そのためには中学生の頃に戻って優しい近所のお姉さん(美人)に勢い生セックスで筆おろししてもらったり、高校生の頃におうちで同級生と制服のままシャワーも浴びずに真夏セックスしたりしないといけないので、タイムマシンとタイム風呂敷の両方を用意してようやく闇が晴れる"かもしれない"というわけだ。1万回くらい巻き戻しても今と同じコースに戻ってくる気がしてならない。あの夏は戻ってこないし、もっと言えば、今日の正午も二度と帰ってこないのだ。

 

 ならば、前向きに考えると、援デリあたりで、ご禁制品の女子高生を業者にあてがってもらい、そそくさとお金の力で闇を7割ぐらいに減らすのが次善策だろうか。時々は警察にしょっ引かれるのが玉に瑕。これでも心の闇は7割前後残るだろう。

 

 今はまだ捜査途中であり、"彼"の心の闇がどのような部分であったか等、同じ千葉大学工学部で過ごした者として興味はあるけれど、彼にも私のように心の猛獣を飼い慣らす力がもしあったならば、徒歩15秒の良き友人となれたかもしれない。ただただ惜しい。

 人という文字は支え合っているとよく言われる。それは、このように、一見して飄々と生きている人にも、心には大小様々な闇が巣食っている。だからこそ、足りない部分は支え合いましょう、でも、なるべく1人で、自分の足で歩いて生きましょうという、ひとまずの自立が求められている現代日本風の解釈が必要であろう。

 とはいえ、そうなると一人暮らしできてておっぱい吸いたいおマンコにハメハメしたい社会人男性が助けてもらうべき社会人女性には何を提供すれば良いのだろうかと、ふと立ち止まって悩んでしまう。私は女性でないので、お互い自立しているとして、男性に何を提供してもらいたいのか皆目見当がつかない。

 

 幼なじみ彼女と排卵日中出しラブH、なんて贅沢は言わないから、おっぱい吸いながら頭をなでられてすべてを赦されたい、今日はそんな気分だ。