新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

ホワイトデーと修羅場

 記憶にあるかぎり、きちんとお返しをしたホワイトデーというのは2001年が最初で最後だ。それ以後はまっとうな人間という評価を得られなかったので母と妹以外からチョコレートを受け取ることはなかった。もう最期に愛と恋とがないまぜになったチョコレートを受け取ってから15年も経ってしまうのだ。時効と言っても差し支えない。製菓業界の販促活動と斜に構えるのも止めはしないが、まっすぐに受け止めて自分の評価されなさに打ちひしがれるのも人生経験の一つであるしどこか心のなかに人生哲学みたいなものが生まれればそれは大変うれしく思う。

 

 今日はそのまともにお返しをした最後のホワイトデーの話をしよう。前段として1ヶ月遡ること2001年は2月の14日、この日は水曜日であった。学校から一度自宅に戻る途上でダイアパレスに居を構える、控えめに言っても中の上くらいの暮らしをしている女の子からひとつ目のチョコレートをもらった。山本寛斎のタグがついたポーチか何かにチョコレートが入っていた。これが中の上なのか。少なくとも線路の向こうのダイエーで買ったものとは思えぬ。例を言ってひとまず家路を急いだ。水曜日はサッカークラブの練習があるのだ。一度帰宅して着替えて、サッカークラブのバスが来る公園まで急いだ。

 

 するとその公園にはまた別の女の子がいた。2人もだ。どうやら1人では渡す勇気がなかったから、友人に見届けてもらいたいらしい。俺様当時から寛大だから受取拒否とかそういうのしないんだけども、まあそういうことじゃないよね。お付きの人に「もらってあげて」とか言われたけれど、ありがたく頂いてバスへ消えた。

 

 前段の話はこれでいいとして、とりあえず当時は月額いくらでもらっていたわけでもないから母に相談をする。とりあえず1ヶ月後にお返しすれば良いんじゃないのということで時は一ヶ月流れる。私は庶民の出なので線路の向こうのダイエーでホワイトデー用の菓子折り……とは言わないな?セットを2つ買ってもらって渡しに行くわけである。もちろん2セット手に抱えて渡しに行くなんてことはせず1セット持って渡しに行ってまた帰宅してもう一人に渡しに行くわけである。そら向こうの心象というものがあるからなぁ。母にもこの点は指摘されたが当たり前だろうということで面倒を承知でチョコレートくれたんはアンタだけやで、という芝居を打つことにした。

 

 無論これには理由がある。3月には引っ越して2県挟んだ西へ行ってしまうからだ。どうせ会えなくなるなら夢ぐらいは見させてあげたい。そういう意図もあった。

 

 当時はガバガバであったから小学校の連絡網に住所が印字されていた。それを頼りにアタリをつけて*1電信柱の住居表示が増えたり減ったりするのを持ち前のIQの高さで理解して一人目のおうちへ到達。マンションではあったがなんと呼び鈴のボタンにガムテープが貼られている。なんだここは。国鉄広島か。いいえ。おそらく故障しているのだろう。ハードルが高くなった。ノックからの大声で名乗ることが要求されている。蚊のような心臓をフル稼働させてドアを叩く。名乗る。要件を言う。本人が出てくる。先日の礼を言ってブツを渡す。ではまた学校で、と帰る。完璧だった。自宅へ急行し2人目の自宅を訪問する。

 

 ところが留守であった。ダイアパレスはオートロックであった。部屋番号を押してもへんじがない。住人が出てくるのに乗じてオートロック内に入り、部屋まで行くも本格的に留守っぽくて断念。一度自宅へ帰ることにした。

 

 この日も水曜日であったが、サッカーの練習に行った記憶はない。おそらく引っ越しの絡みもあってもう辞めていたのだろう。転居先ではそういうサッカークラブのようなものはなく、バスでの送迎付きサッカークラブなどというのは都市圏の小金持ちが子供にやらせる一種の贅沢品なのであろう。田舎に行くと家族総出でデカイ車提供したり洗濯当番回ってきたりする少年野球ぐらいになってしまう。

 

 夕刻になりガバガバ連絡網で家の電話にかける。当時は携帯電話など持っていないわけだからな。なんとかアポが取れたので再びダイアパレスへの坂道を駆け上る。今度こそ会えた。お礼を良い、品を渡し、じゃあと別れようとしたところでまたプレゼントをもらう。池袋にあるナムコナンジャタウンの包み紙に入ったそれはシャープペンシルであった。「向こうに行ってもわすれないでね」ああなるほど。これで手紙を書けるね、と。

 

 

 とは言うものの、当時の少年少女に300キロという距離が重くのしかかり、時間と距離とで自然消滅を辿った。郵便か家の電話ぐらいしか連絡手段ねぇしな。300キロを埋める手段とテクニックは持ち合わせていなかった。青春18きっぷの存在も知らなかったし、ムーンライトながらの素性もわからなかった。

 

 

 あれから15年、久しぶりに成増の街を歩くとこんなに狭かったのかと驚かされる。子供の身長、足の長さ、歩く速度と今の歩く速度ではこれほどまでに感じるものが違うのかと思い知らされる。ベルリンの壁のように感じられた東上線の踏切も別に大したことはなく、スーパーマリオのステージのように高く思えた北口のペデストリアンデッキもひどく小さく感じる。このペデストリアンデッキでかつては海外版のたまごっちが1,000円で売られていたんだぜ。

 

 東上線を走る電車もすっかり変わってしまって、白い塗装の8000系は居なくなってしまった。代わりに当時居なかった30000系やら、オレンジ顔の50000系列やらが音も軽やかに駆けまわっている。営団成増地下鉄成増に代わり、南口のさくら銀行三井住友銀行を名乗る。まちもひとも変わってしまった。そして自分も当時の純真無垢なお子様から、今では膣内射精必死系のアラサー手遅れになりつつある。時間の流れは残酷極まりない。だから今を必死こいて楽しまなくては損なのだ。また知らない街を歩いて、知らない人と知り合いになり、知らないホテルで膣内射精。

 

 明日が今日より楽しそうだから今日は膣内射精記念日。

*1:当時は家にパソコンもなかったしGoogleなんてのもなかった気がする