新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

前4両切り離し

 横須賀線で逗子より向こうへ行くと、時々前4両をを切り離す列車がある。逗子より先ではプラットホームが11両分しかないからだ。たかだか4両を切り離したところで列車という存在の本質には影響しないが、当の列車に意思が存在したならば、その半身とも等しい増結編成を逗子駅に置いていくことに対して少々の不安を抱いたりもしそうだ。今日はそんな、切り離しの不安について記事にしてみたく思う。

 事の発端は深夜のタイムラインである。結婚とは、突き詰めていくと、経済的な安定と、セックスの安定供給とを交換するものである、という過激な意見に対して、15卒の皆様方が概ね同意されていた。かくいう私も15卒でね。中央帝都から追放されちゃあ居るが、県北でひたすら上司と漫才をしている。

 そこで争点となるのが、「属人的な魅力とはなんぞ」というやつだ。仕事?経済力?どちらも捨てるのは簡単なものである。

 

 しかしながら、「機動六課の高町さん」のように、簡単に代われるものでない場合などは、仕事と高町さんを簡単に単離することはできず、セットで魅力ある存在として成り立つわけである。したがって、属人的な仕事を抱えまくっていれば仕事で自分の魅力を高めていることになる……?しかしこれはワークシェアリングの流れに逆らうからよろしくない。属人的な仕事を抱えまくって交通事故死したらあなたの職場は爆発するだろう。

 では経済力は本人から単離可能であろうか。確かに、日本銀行券に記名欄は存在しない。したがって一万円札を「ご自由にお取りください」と設置すればたちまちなくなるだろう。しかしそれは限定的な条件であり、この平和な日本であれば、あなたの財布のお金を使う意思は、あなた自身にしか存在しないわけである。だから、あなたの経済力というのは、あなたの承諾なしに使用することができない。ゆえに、経済力を個人から単離して議論することはできない。

 したがって、仕事と経済力を、人間から切り離し可能な、「属人的な魅力」ではない、と唾棄するのはちと極論すぎるのではないか、というのが笹松総研の見解だ。ただ、これら2つは手放すのが簡単である*1から、よく「仕事をしてる俺としてない俺、どっちが好き?」や、「仕事と私どっちが大事なのよ!」という表現が生まれる。

 

 ひとまず、仕事も経済力も簡単に切り離せるけれど、それは捨てるという一方通行であって、突然他人に付け替えることはできない「属人的な価値」である、という一面も分かっていただけたと思うので一段落。とか言っておいて真逆の話をする。べつに明日あんたが死んだって誰かが穴を埋めるだけなのだから気を負わずに生きるがよろしい。っていう話は『椿山課長の7日間』で読みましょう。


 じゃあ、じゃあじゃあおまんこは単離可能な魅力なのか、属人的な魅力なのかというと、ちーとも議論するに及ばず、おまんこの切り離しができたらそりゃあ面白いねえ天然オナホールかよ笑わせんなという話である。逆にちんこは魅力じゃないってんなら簡単に切り落とせそうな形状をしているのが笑えないところだ。とはいえ、セックスレス夫婦で「妻が」悩んでいるというケースも多々あるからちんこにも魅力はあるのだろう。もはや愛だよね。

 

 カネとセックスを取り去ったあとで残ったものはなんだろうか。社会的役割?世間体?義理?人情?無償の愛ってなに?完全無欠の人間が複数個体で衝突と調整を繰り返しながら生きることに意味はあるのか?

 

 目に見えて分かりやすいからおカネの話をしよう。おカネというのは「もの」を持っていない人間が、持っている人間に渡して「もの」をモノにするのに使う。ここに存在するのは「もの」の不均衡である。別に誰もおカネが使いたくて使っているのではなく、不均衡を解消するのに一番手っ取り早いのがおカネであるからしぶしぶ使うのだ。

 だから、局所的におカネ以外で不均衡を解消できる手段があったらば、その手段で解決しても良いだろう。たとえば扶養であったり、たとえば子供を産んでもらうであったり、たとえばセックスであったりする。単にその場でおカネが用いられなかったに過ぎない「不均衡の解消」だけがそこには存在する。

 

 だからこそ、代わりの効かない「属人的な魅力」とやらは麻薬のようなものであろう。なにせ、「あなたでなければいけない」のだから。

 

 やめられないとまらない。




(この記事は日本航空234便の機内にて、機内モードで執筆した)

*1:辞表を出して、預金を全額寄付しちゃうとか。