新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

脳内担当者

 最近とみに寒くなってまいりまして皆様いかがお過ごしでしょうか。厚着と足元のヒーターでどれだけ持つか頑張ってみたいと思いますが当方寒冷地*1住まいにつきいつか限界が来てしまうものと思われます。

 

 最近ようやく気づいたのですが、世の小説家、とりわけ登場人物の心情描写が細やかで味わい深い作家さんというのは恐ろしい才能をお持ちだと言うことです。普通は自分の心境すら色鮮やかに文章で綴ることすら難しいのに、あろうことか架空の登場人物の心情をすらすらと文字列で鮮やかに成し遂げてしまう。まさに人間離れした才能です。そもそも自分という人間の思考すら理由づけしたり論理的かどうか、合理的に行動しているかどうかなど深く考えたことのない凡才にはなかなか羨ましい限りであります。なんでこんなことに気づいたかというと先日twitterにて次のようなやりとりをしたからであります。

 

 

 詳細は各位リプライチェーンを辿っていただくとして、このやりとりでは当初、鈴谷のぱんつを食べて軽く怒られるシーンを想定していました。でまあそのままなんだかよくわからないままセックスするんだろうなあと考えてリプライを投げたわけであります。

  ところが和泉氏返して曰く「鈴谷はこうだ」というわけです。ここで既に思考の摩擦が生まれている。ところが思考の摩擦というのは一概に不快かというとそうではないわけでむしろ心地よいわけです。私は鈴谷のぱんつを食べて怒られると想定した。ところが和泉氏はもっと食べるか鈴谷が聞いてくると言った。このやりとりはもうセックスと言っても過言ではない。成人男性2人がtwitter上で架空の女を介して事実上のセックス。たいへんに業が深い。

 

 そもそもどこかの図書室かなにかで見たセックスの書物には「摩擦を楽しみましょう」と記されていた。これがどういう意味か。愛液での濡れ方が不十分だと確かに摩擦が生じるがそれは不快感、やもすると痛みを伴うのではないかという恐れすらある。ところが当時小学生の私は「物理的な摩擦」以外のものを想定していなかったのだ。人生経験が浅いから仕様のないことである。

 

 そこで時が15年ほど進んで先日のやりとりである。ハっとした。「摩擦」とは「心が擦り合わされるときの摩擦である」と気づいたからだ。そしてそれは自分自身の中にある「相手」像とのすり合わせで生じる心の擦れ合いなのだと気づいてからは30分くらい愉快になった。だから人は容易にセックスするし心をすり合わせるのだ。なぜって、架空の人格・思考をない頭でウンウン唸って産み出して架空の心をこすり合わせるより目の前の人間との心の摩擦を楽しんだほうが圧倒的にラクで気持ちいいからであろう。

 

 そこで再びベストセラー小説家が凄いというハナシに戻ってくる。奴らはキチガイである。事実上のセックスと言っても過言ではない登場人物どうしの心の擦れ合いを文字列で繊細に描いてしまう変態だ。私にはとてもとても無理であろう。そして、この大原則を知っていればたとえ登場人物が兄妹であろうと「それはもうセックスなのでは」という感じの描写が可能となり「家族愛」だのなんだのと広告屋が陳腐な広告をつけるまでもなくベストセラーとなりうる。心のセックス、本質的な心の摩擦を楽しむ素養が備わっている大多数の人間にとっては描かれた心の摩擦であっても快感であるから売れるのだ。

 

 誤解のないように弁明しておくと和泉氏ほか変態成人男性ズとは握手程度はするもののそれ以上の性的な接触を持とうとは思わないと付け加えておく。でも、この場合は"鈴谷"であったが、共通の架空キャラクタを媒体に事実上のセックスと言っても過言ではないやりとりをすることは可能であるし、このままエロ同人のプロットとして出荷しても悪くはない。

 

 今度彼にあったら夕雲型駆逐艦のぱんつの色の議論でもしようと思う。

*1:赤道と比べたら日本って寒冷地だよね