新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

ブルータス

 ブルータス、お前もか、というセリフは世界史的には有名であろう。裏切られた哀れな人間の捨て台詞(ただし手遅れ)である。なあに、人間恨まれたりしたことは覚えちゃいないのだから「あの日のあれ」が原因で刺されたり裏切られたりする可能性を忘れてはいけない。なにせ、人間というのは脳みその構造上そういう行き違いが起こりやすいからだ。

 

 座右の銘というほどでもないが基本的な行動方針というものが誰しもあるように思う。私の場合は、

  というものだ。人間誰しも裏切られたり刺されたりした瞬間、相手を確認して、おおよそ「信じられない」という感情を抱くだろう。なんでお前がそんなことを、と。しかしながら、"刺す側"の主観としては刺し殺すに足るだけの事情というものがあるのだから、脳みそをパカっと開いて主観を共有できない以上、相手側の意思を尊重する必要がある。というのは綺麗事であって、実際には刺された瞬間に考えるのは生命機能の維持であって、裏切られて窮地に立たされたならば社会的地位の喪失を防ぐのが急務となる。相手方の主観の把握は二の次だ。

  続いて私の好きなtweetをひとつ。堀江貴文氏が逮捕されたりする前はよく言っていた「想定の範囲内です」という言葉がある。氏が逮捕されるところまで想定していたかどうかはさておき、ありとあらゆる「かもしれない」を想定して備えておくのは危機管理の第一歩である。「火事が起きるかもしれない」から消火器というものがこの世に存在し、119番という電話番号が存在するのだ。

 

 話がそれた。人間「してあげたこと」は忘れないものだ。なぜならば、自らの身銭を切り、時間を用意し、時には自分が優先したかった事柄そっちのけで何かを施したという記憶は色濃く残る。人間は負担に敏感である。500円貰うのと500円払うイベントがあったとして、記憶に残るのは払う方であろう。

 

 ところが案外「してもらったこと」は忘れてしまう。特に毎日してもらったことというのは忘れられやすい。仮に相手がどれだけのリソースを負担して毎日なにかをしてくれていたのかというところに想像力が行かない。なんでもいい。毎日弁当を作って持たせてくれた母親。会社と家の往復になりながら養育費を出して餓死することなく給料を持って帰ってきた父親。愚鈍な自分に愛想を尽かさず話に付き合ってくれる友人。「ひょっとして、相手はなにかしらの負担をしてくれているのではないか、自分のために、採算度外視で」という想像力がいつか身を助けることになりはしないだろうか。逆に、そういう視点の足りなさが、いつか身を滅ぼすことにならないだろうか。今一度、考えたい。

 

 

 ……という考え方をしながら生きるとなおさらツラくなるのでなーにも考えずに中出し生セックスしてなーにも考えずに子供作ってなーにも考えずに会社とおうちを往復していればOKで一人前でちゃんとした大人として世を歩けた高度経済成長がうらやましいなあというだけのお話でした。

 

 こんな堅苦しい時代におっぱいのひとつもないのか、もう誠実に生きてなどやるもんか、後は野となれ山となれ、隣の芝は青かった。家系ラーメンには青カッパ。

 

 考えたら負け、中出しで感じろ。