新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

まぼろしのスクール水着

 この話はブログ以外では何度かした気がするが、このブログではまだのようだ。今日は節水にまつわる悲しい悲しいお話をしようと思う。御存知の通り水は大切な資源、とされる。なぜならば、飲み水として適した水質に浄水し、外から不純物が入らぬよう水圧をかけて各家庭まで導水し、というコストは尋常ではないからだ。……とは言うものの、蛇口をひねれば水が出る、水道代はただも同然。自治体によってはほとんど地下水なので水道代は徴収していないところすらあると聞く。日本人はみな、安全と水はタダだと思って居やがる、というのはよく言われる話ではあるが、少なくとも水についてはタダみたいなものだろう。

 

 とはいえ水も資源であり資源というのはえてして偏在している。偏在しているものを遍く行き渡らせるためには貯めて分配する必要がある。典型例としてはダムが挙げられる。水の豊富な地点におおきなコンクリートの堰を設けて水を常に貯めておく。そして適宜必要に応じて水を分配する。古来より文明は大きな川の側で育まれてきたが、現代の土木技術は文明の賜である水道を遍く行き渡らせ、どこでも文明的な生活が送れるようになったのである。

 

 しかして、どれだけダムをこしらえても、長く日照りが続くと水が足りなくなるのもまた世の理である。「貯水率が15%を切りました」「貯水率が0%になったので発電用の水を融通していただくことになりましたありがとう電源開発さん」などと連日のように報道されるようになり、ダム湖の底にはかつての村役場等が姿を現す。渇水である。こうなると水道は圧力を下げての送水となり、ひどいと断水する。水がないのであるから仕方があるまい。

 

 水不足となると一番に絞られる使いみちがある。ひとつは洗車である。特に鉄道やバス等、公共交通の車両を貴重な水でじゃぶじゃぶ洗うことはしばらくなくなる。赤茶けた土埃にまみれた車両が行き交う事態となるが飲み水のほうが大事である。では、洗車以外となると何を絞ることになるだろうか。

 

 答えはプールである。国鉄連絡船の沈没事故以来、泳げる、浮かぶことができると命を救うということで全国遍く学校にプールが設置され、広範に水泳の授業というものを実施するようになりもう半世紀ほどになる。が。しかし。毎年やることであるから、飲水の足りない年にわざわざやることでもないので、水不足となるとプールは中止である。たとえ自分の土地から出てきた湧き水100%の市民プールも市民感情に配慮して閉鎖である。

 

 とはいえ毎年やることなのだからいつかはプールに入れるだろうと思っていたら入れなかった残念な人間もいる。私である。とはいえ小中の9年間はプールに入れたし、別に泳げないわけでもないから特段実用上困るわけではないが、肝心の高校三年間において、母校のプールで泳げなかったし、貴重な同級生のスクール水着を拝むこともできなかった。出来たのはプールから上がってきて髪が濡れている同級生の姿を横目に見る程度であった。

 

 事情はこうである。まず、高校1年、ふつうであれば男子が水泳の授業を行う予定であった。そこへ水不足が襲来し、水泳の授業は鉄棒で代替されることとなった。残念。うどんばかり茹でている水があるならプールに注げ。うどんは血で茹でろ。……。そして何より、私は鉄棒が苦手であった(という思い込みがあった)。小学校の頃は逆上がりすらできなかったのに今日び高校に入ってから鉄棒をやらされるとは思わなんだ。各種目に点数がつけられ、一定の点数をクリアしないと居残りであった。プールに入れない悔しさをバネに取り組んだところ、できない(という思い込みがあった)はずの逆上がりもラクにできてしまい、あっさり所望の点数を得て鉄棒は終わりとなった。とはいえプールに入れないのはクソである。ファッキュー日照り。ファッキュー取水制限

 

 次いで高校2年。こんどは女子が水泳の授業を行う年であった。ふつうに実施され、水泳の授業後に髪が濡れた状態で教室に帰ってくる同級生の貴重な姿を見ることが出来て大変興奮した。だって考えてもみてほしい。高校2年生の段階で、同い年の女の子の髪が濡れているシーンを目にすることが他にあるだろうか。ラブホとか言ったやつは死刑。後でしっかり殺す。そして、ラブホでシャワーを浴びても身体を流す程度で髪まで濡らしたら大変だろうというマジレス野郎もしっかり殺す。絶対にだ。もう許さんぞ。

 

 ラストチャンスは高校3年。なんと水泳・バレーボール・ソフトボール等好きな種目を選んで男女混合だという。悪い友人2人を抱き込んで水泳を希望した。当然の行動である。このままでは母校のプールを使わぬまま卒業して世間に出てスクール水着フェチになってしまうではないか。ここで危険の芽を摘んでおかないと危機管理がなっていない。そうしてめでたくスクール水着の同級生とプールで泳ぐことが出来ました……と無事に終わったら良かったしみんな救われていたのだろう。けれど、現実はそう行かなかった。みんなが幸せになるなんて土台無理な話なんだ。最後に残った道しるべは儚く消え去った。そう、理系クラスの水泳希望者は全部で3人、私と抱き込んだ悪い友人2名のみであった。なんということだ。ロビー活動が不足していたのか。悲惨な洞爺丸事故・紫雲丸事故の悲しみを再び起こさぬよう水泳の大切さを説いて回るべきであった。あいさつ運動などとやるきのないタスキを掛けて突っ立っているくらいなら手製の水泳啓発チラシを配るべきではなかったか。なぜベストを尽くさなかったのか。人生後悔先に立たず。不肖笹松、根回しの重要さを辛酸をぺろぺろして知ることとなった。

 

 

 そんなこんなで悲しいことに現役女子高生のスクール水着姿を拝めぬまま高校、大学を卒業して社会に輩出され、荒波に揉まれ、就職し、退職し、いまふたたび人生の方向性すら見失いつつある。やはりあの日あの時の幻を、スクール水着の幻影を追いかけてしまうのは偶然ではなく必然であろう。

 

 別にこれらの事情をすべて理解をしてくれと言うつもりは毛頭なく、ただ、私のために、私のわがままのために、スクール水着を着ては頂けないだろうか、というささやかなお願いを聞いてくれる美人を常に募集しています。できる範囲で構いません。どうぞ、ご連絡をお待ち申し上げております。

 

 生きるのがつらい。