新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

倫理教育とは何を意味するのか

 先日は同窓会があるというので実家の方面へ帰省した。その際、実家宛に届きっぱなしの封書をいくつか開封した。まる1年から差し引くこと1日、つまるところ365回の夜を超えた後に踏み入れた実家には、山積み、というまでもないが、それなりの郵便物が溜まっていた。そんな中に、卒業した大学からのものも多数あった。同窓会費の納入を迫る払込用紙と会報のほか、寄付金のお願いもあった。国立大学法人となると、とかくお金がないということを前面に押し出される。私が4年次に所属した研究室の先生はとある民間企業出身であった。千葉大学で仕事をするにあたり、前職前年の源泉徴収票を事務に提出するとこう言われたそうだ。「この金額は、千葉大学において、学長ですら貰っていません」と。アカデミックで食べていくのは、営利を目的としていないだけあってなかなかに厳しいようである。かくいう私は不向きを自覚し、修士すら修めず学部卒で民間企業に入ってみることにしたが、それはまた別のお話。

 

 さて、諸賢既に御存知の通り、千葉大学の学生やら卒業生やらが警察のお世話になるという事象が多発している。それについての風当たりは言うまでもない。かくいうこのブログですら、3月の事件について述べたらば、私という一卒業生が在籍するというだけの、無関係な民間企業あてにお手紙が届いたことは記憶に新しい。

sasamatsu.hatenablog.jp

 そういう折に封書で届いた寄付のお願いである。封筒を開けて一番上、いちばん最初に目に入る挨拶文がそういう事情をどうのこうのと書いた紙片であった。

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 以下文字起こし。弊ブログは何らかの事情で画像を読み込めない購読環境の皆様にも配慮しておりますというポーズ。

卒業生・保護者のみなさま

        本学学生の逮捕に関する報道について

 このたび、本学学生の逮捕に関する報道がなされました。本学では、世間を騒がす事件が続いており、皆様方には、大変なご心配をおかけしていることと存じます。

 本学としては、3月の事件報道以降、学生への教育指導等を強めてきたところですが、今後、このような事が起こらないように、なお一層の倫理教育を徹底していく所存でございます。

 どうか今後とも千葉大学へのご支援をよろしくお願いいたします。

 

              国立大学法人千葉大学

 

 

 なるほどなるほど。別に日本語の専門家じゃないから日本語としてどうこう、というツッコミはしないし、なによりできない。

 とは言えモノを言うのは自由でタダなので適宜上から順にツッコミを入れて行こうと思う。

 

・「世間を騒がす」?

 まず前提として世間とはなんぞやという思想哲学が、この文章を読む人々の間で、どのような共通認識なのであろうか。世間が騒ぐとはいかなる事態であろうか。そら、ゴジラでも上陸してきて、自宅が一瞬で燃えるか更地になるかすれば、自宅近隣の人々は騒ぐであろう。あるいは、米国大統領が何かしらの意向でどうにかなってしまって(語彙力が貧困ではあるが)、ドル/円のレートが50円になるとかすれば、東京株式市場の相場もえらいことになり、これまた株を持っていたり、日本株がメインの投資信託を抱えている人々は騒ぐか泣くかするだろうし、少しばかり経済の知恵がある人だったらば、年金機構が持っている株券という資産が音を立てて溶けていくのを感じて頭を抱えるだろう。けれど、株を持っていなければ、よもや自分の年金が株式市場で運用されていると思いもしない人間は騒ぐだろうか。結局のところ、世間が騒ぐというのは、当事者の多寡によるのであって、報道される内容がセンセーショナルだったからと言ってもせいぜい75日が限度、下手すれば49日ほどで忘れ去られることが多いだろう。当事者以外にとっては。

 では、この、3月の女子生徒監禁やら、11月の集団強姦致傷やら、この場合の「騒ぐ」世間とはどこの人であろうか。もうお分かりだろう。「千葉大学の関係者を中心とした」世間である。凡そ半径数メートルであろう。3月の事件直後は私の両親もあちらこちらで「息子さんと知り合いではないのか?」と聞かれたそうだ。しかしてこれも、彼らの息子である私が千葉大学を卒業しているからに過ぎない。「知り合いの知り合い」、つまり2ホップの人間関係以内に千葉大学に関わる人間がいない人間にとっては、知らない大学の1学生がちょっとサイコパスじみていて変な事件を起こしたか、怖いねえ、でも我が家には関係ないねえ、でおしまいではないか。

 つまるところ、「世間を騒がせる」という表現が使えるしきい値というのは大変に小さいのである、ということが言いたい。無作為に100人を選んで、3月の事件について「騒いだ」人間が5人もいれば十分であろうと思われる。別に世間を構成する人間の99%を騒がせる必要はない(もしそのような事件や災害が起きたら社会活動に大きな影響を及ぼすであろう)。働き蟻は全体の1割だか2割だか忘れたが、大多数が黙っていようと、特定の属性を持った人間が"騒げば"、まるで世間が騒いだかのように扱えるわけである。

 

・「より一層の倫理教育」?

 倫理とはなんであろうか。弊ブログでは数度に渡って倫理関係の記事を書いてきた。

sasamatsu.hatenablog.jp

sasamatsu.hatenablog.jp

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 以下、これらの記事の焼き直しみたいな成分を多分に含むであろう。なにしろ、倫理というテーマで同じ人間が書いているのだ。

 あくまで倫理というのは各個人が持つ外面のようなものであって内面まで規定することはできない。内心で死ぬほど殺したいと思っていても現実では殺しをしないという選択肢は枚挙に暇がないだろうし、お金がないけど品物がほしいからと言って100人が100人とも窃盗に手を染めていたら警察署のブタ箱は大盛況でアルコールもなしに宴会となろう。当然、無責任に膣内射精をして自分は責任を取りたくないという考え方もあるだろう。殺しや窃盗と違って膣内射精は和姦である限り刑法ではなく民法上の都合だけれど、「責任を取れ」と申し立てられればDNA鑑定やらなんやらで押し負けるので、つまるところ今の日本では悪いこととなる。ただし、これらはすべて内面の話であり、実行しない限りはいくら脳みそで酷いことをする算段をつけてもなんら問題がないことになっている。

 

 ここで倫理教育の難しいところが露呈する。なにせ、大学で「倫理教育」をする、とブチ上げましても既に入学当時で18歳アンドアップなわけである。とうの昔に自我を確立し、それぞれの倫理観を持って入学してくるわけである。人生という、現実という、やけに自由度の高いMMORPGのような空間で20年ほど生きて、それぞれの経験と、それぞれが受けた教育で、各自が倫理を持っている。この倫理をいまさら「同じ組織に関係しただけの知らねえ人間」がやらかしてポリにパクられたからと言って大学法人が望む「きれいな倫理」に持ち替えましょう、というのはちょっとお花畑が過ぎる。「法人」とは、「法の上で人と同格」という意味である。別に倫理は法ではないが、一人の人間が対面した相手の倫理をごっそり入れ替えたり上書きできたらその場で宗教法人を始めるべきだ。確実にそちらのほうが平和になる。

 

 では、万策尽きた大学法人はどうすれば倫理の持ち替えを推進できるであろうか。簡単である。「我々が提唱する倫理という皮を被って生活すれば幸せになれます」と提唱し、実際に構成員をみな幸せにすればよい。……やっぱり宗教じゃないか。名声が欲しいヤツには名声を、実績が欲しいヤツには実績を、良い就職先が欲しいヤツには良い就職先を、肉便器が欲しいヤツには肉便器を、美人に膣内射精したいヤツには美人を、イケメンに抱かれたいヤツにはイケメンを、etc……。うん、「きれいな倫理」って宗教ですわ。「このお題目を唱えれば救われる」に近い。「内面がたとえどうであろうとポリにパクられなければ関係者が騒がなくて構成員がみんな心穏やかに暮らせる」という宗教。本尊はなんだ?学生証?卒業証書?教義は「ポリにパクられないこと」?いやはやろくでもない宗教法人だ。

 

 とまあ酷い論調を手癖で書き連ねてはみましたが、結局のところ、どういう組織も「うちは異常者を飼っていません」アピールが大事であって、就職面接も表面的な異常者を弾いてみようという方針になっていて、結局のところ、それぞれが飼っている内面のケモノにフタをして、ケモノが暴れて大事故になっているのだからお寒い限りである。

 どうせみんな無責任に生セックスがしたくて、仕事はしたくなくて、でもお金を稼ぐ人に養われたくて、という本音にガンガン振った前提で生きるか、はたまたその逆で、みんな素晴らしい人間が素晴らしい世界を作って毎日が輝いているという前提で生きるか、それもまた自由であり。

 

 極端なステータスの振り分けはマゾのすることですから、何事も、バランスというのが大切なのかもしれませんね。

 

 建前が大事で、本音が聞けた頃には手遅れ、という状態は最悪ですよ。