新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

教室と国家

 今日のお題は「教室と国家」であった。何かしらの有名なフレーズだったらば、知らずに駄文を書くと無教養がバレるため、一応検索をかけては見たが引っかからなかった。従って教室というのは国家の縮図である、とりわけ義務教育の間はその傾向が強い、という論調で話を進めていくことにする。

 

 自我も体力もついてきて生意気な中学生どもが集められた公立中学校の教室を想像してみよう。ただしこの時点で一部のお金持ちな上澄みは私立や国立のお受験が必要な中学校に抜けていることに留意が必要である。そう、公立中学校の教室というのは上から1割ぐらいの上澄み層を取り去ったあとに残った9割の国家の縮図である。下から9割、である。そのうちおおよそ日本語が通用するのが半数くらいか。公立中学校の教諭というのは何かしらの血迷った情熱で駆動しているからか、日本語が通じない半数をどうにか押さえつけ、卒業まで警察にパクられないように様子を見つつ、という基本スタンスで日々を過ごしているように思う。たいへん頭の下がる思いだ。思うに、公立中学校で3年間過ごすと、その後世に出てから市井の者どもに対して過度な期待を寄せなくなるし、まかり間違っても下から9割を相手に消耗せねばならない接客を含む業種に就こうと思わなくなる、気がする。卒業時には既に妊娠してる同級生が居たり、他所から転校してきたヤンキーっぽいのが既存のヤンキーにやられて光の速さで不登校になったり、美人のセンセが産休で引っ込んでる間に来た、いろいろと微妙な講師が生徒にイジメられてココロの病気で休暇に入っちゃって自習になったりと、社会の悪を煮詰めたような事象が次々と起こるので退屈はしないが、日々生存が脅かされている感じの中で生きることになる。

 

 というような教室で過ごすと、国家とは、という思いもなかなか愉快なものになる。正義とはなんぞや、常識とはなんぞや、高校中退がなんぼのもんじゃいという世界と、大学出だけで出来ているようなハイソなコミュニティとでは断絶がある。ところがその断絶をもやすやすと同じレベルで話ができる事項がある。セックスである。セックスに学歴は必要ない。そこにあるのは往々にして2人以上の人間だけである。人種の壁も民族の壁も存在せず、ただただ肌を合わせて快楽を貪るという原始的な行為は食う、寝ると並んで学歴を問わず必要とされる。

 

 教室でも国家でも、基本原則として平等の建前がある。当然、金持ちの子も貧乏人の子も、イケメンも不細工も平等なのであるが、義務教育が終わるとひとつだけ平等ではなくなるものがある。学力だ。高校以後の教育課程で、人は概ね学力によって振り分けがなされ、入学時点での学力は概ね均質となる。その後もまた大学受験が控えており、ふたたびその場面での学力を検査し、ふるいにかけることが大手を振ってまかり通っている。これはなぜか。合理的には、いくら学校が広く学問をひらいていても、設備には限りがあり、一定の教育水準を保証できないから、とされる。「一定の教育水準」のためには万人に平等でなくなってもその場では仕方のないことだ。

 

 似たようなものがある。おまんこだ。よく「イケメンばかりが得をしている」という言説はあれど、供給の主体であるおまんこの側からしても、まったくキュンとしないちんこにマンコサービスを提供した結果、濡れない、抱かれたくない、マグロにしかならない、演技をする気も起きないとなっては本来のまんこポテンシャルを発揮できないことになる。適材適所。まんこは濡れるちんことマッチングするべし。ちんこも勃つまんこを相手にすべし。演技はすぐ限界が来る。本心から相手を気持ちよくしたいと思えないと、途端にボロが出て関係が破綻するだろう。ちんこ、まんこともに競合相手を自覚してこそはたらくのが市場原理である。とはいえ公共サービスではないから、サービス相手を選ぶのも自由。打算と妥協で均衡する場合もあるように思う。顔は良くないけどフェラチオが絶品であるとか、ピルを飲んでいて中出しOKだとか、他より多く稼ぐだとか。市場原理で一番怖いのはマーケットの参加者が減ることである。東証を見よ。すっかり市場が冷え切ってしまった。市場自体の魅力が失われると急激に参加者が減る。一攫千金を目論む気持ちを、射幸心を煽っていかないと早晩まんこちんこ市場は廃れるだろう。市場が廃れれば意図せぬ金額での損切り・投げ売り・買い叩きが横行し、悪意のある人間のみが儲かるシステムの出来上がりだ。

 

 とはいえ、相場はこの世の幻想郷。自分の目の前にだけ、ありえないほど有利なまんこが現れることすらあるだろう。だからギャンブラーは退場せずに借金してでも、次こそは、次こそは取り返すと息巻くのである。

 

 

 株や先物で大損して再起不能になる人は損切りが下手くそな人です、と古事記にも書いてある。