ちょいブス巨乳
今日のお題は酷いものである。「ちょいブス巨乳」である。この語句はなかなかに深みがある。まず前半。「ちょいブス」である。もはや説明は不要であるがあえて説明するとすれば、ブスというのは減点法の語である。ところがぎっちょん、"ちょい"ブスとすると、途端に意味が曖昧になってくる。「10分前」だといまから600秒ぐらい前の話なのに、「9時10分前」だと8時50分なのか9時9分ごろを指すのか曖昧になるような感じである。一部地方だと「9時前10分」という口語でもって8時50分を示すそうだ。あまり馴染みのない言い方だけれど、あいまいさを回避するという意味で生まれた表現であろう。従ってブスだと目も当てられない感じに顔のパーツの合いが絶望的であろうけれど、ちょいブスともなれば美人とはとても言えないんだけど惜しい感じになる。ブスが朝3時、美人が正午とすれば「ちょいブス」は11:45頃、みたいな感じ、と言えば良いだろうか。従って、人によって意味合いは変わるであろうけれど、「ちょいブス巨乳」という文脈において私は「11:45頃の顔」を提唱する。異論は認める。美人は3日で飽きるとか、ブスは3日で慣れるとかそういうのはあまり好きではない。毎日新鮮に暮らさないとマンネリ化してしまうからだ。「あいしてる」「いつもきれいだね」「うーん、最高」「ええんやで」「おっぱい」、これが毎日を円滑にする魔法のあいうえおだ。今日からフリー素材として使ってよろしい。
続いて「巨乳」である。実部と虚部の話ではなくて巨乳の話だ。貧乳のほうが曲率半径は大きく鈍角であるから、自然な曲線を描くとすれば虚乳部はとてつもなく大きいという理屈はあれど、絵に描いた乳は揉んだりすったりできないので却下だ。ここでは実乳のみを扱う。複素乳平面は指導要領に含まれない。とはいえ、巨乳という語の概念もまた曖昧なものだ。Aカップを巨乳と言うかどうかはともかく、Cカップを過ぎたあたりから巨乳と認める人間の割合が有意に増えるように思う。高校時代、ラスベガスみたいな名字の同級生は、火災報知器のランプを手で揉み、「Dカップ」などと寝言を抜かしていたが、あながち彼のサイズ感は外していないように思う。そう、Dカップくらいでは軽率にパイズリができる二次巨乳には及ばない。ブラを外せば谷間は曖昧。そもそもおっぱいというのは脂肪以前にほとんど水である。水は低きに流る。そう、どれだけブラ上で大きなおっぱいも、仰向けにゴロンと寝てみれば、まるでホットプレートにホットケーキミックスを流したようになってしまうのが物理法則というものだ。非常に残念がる人も多いだろう。まあ絶望せずに最後まで話を聞け。物理法則というものは裏切らない、従って逆におっぱいに四つん這いになってもらって下から吸えばよろしい。今度は重力を味方につけてさながらウシチチのように大きな質量感のあるおっぱいが上からぶら下がっている状態となる。感動だ。同じ素材も料理方法で満足感が得られたり得られなかったりする。もったいないことはよくない、せっかく吸えるおっぱいがあるのだから少しでも質量感で満足しよう。セックスはお互いが満足できるのが一番であるからしてもらいたいことは言ったほうがよろしい。
ここまで長々と書いたけれど、ちょいブスかどうかよりいい匂いがするかどうかのほうがよっぽど重要だし、吸えない巨乳より吸える貧乳という構図は覆らないから、今日明日とつぜん巨乳女に恋人があっさり奪われてしまったりはしないから安心して欲しい。……たぶん。新自由主義のもとに自由恋愛市場ではダメっぽくなったら次の相手をキープしつつシームレスに乗り換えるというのも多くあるわけだから安心はできないが。離婚率が3割じゃ結婚も引き留めパワーに欠けるということか。なんにせよ、おっぱいは若いうちにたくさん吸われておいて欲しいし、私も若いおっぱいをいっぱい吸いたい気分だから、功利主義的に世界が幸せになるためにみんなセックスをしてほしい。そこに私が不在でも構わないから市場が活発になってくれることが一番である。いくら需要があっても供給が絞られちゃうと市場が冷えちゃうからね。
ビキニ着せたまま谷間にちんちん突っ込んで遊びたい。