新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

アツアツが良いとは限らない

 今日は食事の話をします。

 

 温かい食事がなにより至上であると、この世に産まれて四半世紀を過ぎた今では当たり前のように思います。横浜家系ラーメン、茹でたての黄色い中華麺が熱いスープに踊ります。傍らには熱いライス。最高ですね。讃岐うどん、シメた麺を熱い湯に潜らせて熱いダシを注ぐ。最高ですね。……いつから熱いメシをウマいと感じるようになりましたか? 記憶にない? 気がついたら? 今日はそういうお話をして参りたいと思います。

 

 おおきなガラス管の中に蛍光色の培養液が満たされていて、その中で成人相当まで育ってからこの世に現れた皆様には申し訳ないのですが、私にも幼少期というものがありました。母と並んで、台に乗ってなんとかキッチンに立ち、ハンバーグをこねたりギョウザを作ったりしていた時期がありました。ところがその後の食事では母親に叱られたり、あるいは泣かれたりするわけです。

 

「なぜこんなに一生懸命につくったおかずを食べてくれないのか」

 

 と泣かれるわけです。もうツラいと泣き始める母親の姿を今でも思い出せるのですが、そうして段々と母は手の込んだものを作らなくなりました。……ということはなく、中高生に上がってモリモリとメシを食うようになると、懲りずに再び何を食べたいかと訊いてくれるようになるのですが、まあ幼少期はメシを食わない、そんなにお菓子がいいのかと若干ヒスってんじゃねえのかってぐらい泣かれるわけです。創作やる各位ならわかるのでしょうけれど、作った作品が読まれない、感想が貰えないと心が折れるあれです。夕食という作品を食べてもらえない、おいしいとかちょっと味が薄いとか感想が貰えないと心が折れてしまうわけです。とはいえ幼少期の私にもきっと言い分がある。

 

 食事が熱いのです。

 

 そう、大人となったいまならわかります。食事はアツアツで供されるのが最上で、冷めてるメシなど食べたくはない。ところがどうした、幼少期はカップベンダの自販機から出てきたホットココアが飲めたでしょうか。飲めないですね。熱いのです。幼少のころは感覚が過敏で、大人ほど熱いものをすんなりと飲み食いできないのです。

 発達障害というものがあります。その症状(?)のひとつに感覚過敏というものがあります。音だったり光だったり症状は大なり小なり程度も人それぞれ。身体や心の発達が部分的にゆっくりであることから発達に障害がある、そう解釈すれば、幼少期というのはまるで全身が発達障害みたいなものではないかと思われます(※私は専門家ではないのであまりこの段落にツッコミを入れないで欲しいとは思います。例え話です)。

 

 一方で学校給食は低学年の頃から比較的バクバク食べられたような記憶があります。カンのいい読者諸賢はお気づきでしょうけれど、自校給食にせよ、センター給食にせよ、食器をひっくり返してもヤケドをしない程度に「冷めて」配膳されるのです。そう、米飯も主菜も副菜も、熱くないのです。だから小学校低学年でもバクバク食べられるのだと、思います。

 ……ということは、家の食事をおいしくなさそうに、米飯だけを冷たい麦茶で流し込むように食べて食事を終わらせる子供というのは、食事が嫌いなのではなく、熱いのが苦手なのではないでしょうか。従ってこの場合に早く食べろ、全部食べろというのは悪手で、適度に冷めた頃に食べるのを待つのが賢明ではないでしょうか。もちろん、各家庭において食事に割ける時間は有限でしょうから、あまり悠長なことを言っていられるものでもないでしょうが……。

 よほどの偏食でもない限り、中高生になる頃には食事をまともに摂れるようになるのではないかと思いますが、それでも食べない場合はメシがマズいか、ダイエットでも意識し始めたかでしょう。知らんけど。なにせここまでの文章は私が私という人間の半生を振り返って一人称視点で説教じみて書いてあるわけですから、他の人間の視点というのを考慮はすれど体験することはできませんから……。

 すると、幼少期から握り寿司が好きだったのも納得がいきます。熱くないからね。同様に大好物と言うほどでなくても、俵型おにぎりの入ったお弁当もよく食べられました。なにしろ適度に冷めていますし、母は冷めてもおいしいおかずを作ってくれたり、時には冷凍食品とはいえ、こちらも冷めても食べられるおかずでしたから。あとは素麺も好きだった気がします。やはり幼少期はアツアツとオイシイがイコールで結ばれず、アツアツは苦痛なのでしょう。冷めてもおいしい食事というのはなかなか難しいですが(冷めると油が固まって浮く料理は数多あります)、けしてあなたの食事がマズいわけでも、食事が苦痛なわけでもない、これだけは覚えておくと、いくらかラクになるのではないでしょうか。

 

 

 

 ここで、おねショタという概念があります。年端もいかぬ男児を(性的に)愛でるお姉ちゃんとの組み合わせのことで、成人になってしまった男性にも一定の人気があります。男児ペニスをしゃぶって愛でるとショタの全身がビクビクなったり、お姉ちゃんに白いおしっこ出ちゃう、などと泣きながら射精したりまだ精通していなかったり。童貞を奪うの上位互換で精通を奪うなどという業の深い概念まで内包していますが、はてさて。

 幼少期の敏感な感覚のままにお姉ちゃんの粘膜で愛でられるそれ――おねショタ――はきっと全身を震わせるほどの快感であるのだろうと愚慮しますが、それはすなわち加齢とともに感覚がリニアに鈍るということの裏返しではないでしょうか。

 

 性欲や食欲が加齢とともに減退するというのも、医学的なエビデンスがある部分はともかくとして、字面通り感覚が鈍るという場合もあるのではないでしょうか。

 

 

 歳を食って熱い料理をウマいウマいと食べられるようになったのは、はたしていいことなのか、悪いことなのか。確実にひとつだけわかるのは、いまこの瞬間に感じる全てを大切に生きるのは、悪いことではない、ということでしょう。

 

 

 だから私は毎日生膣の感覚を味わいながら日々の小さな変化を愉しみたい。