新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

学歴コンプ

 上野千鶴子氏による東京大学入学式の祝辞に対し何かを申した瞬間に自らが東京大学を出ていないという学歴コンプが露呈するスタイルなのはさておき、とりあえず半径五メートルのインターネットに波紋が広がったように見える。

 

 学がないので大変下品なことを言うけれど、「いちいち正論で突っかかってくるめんどくさそうな女を脱がせてもめんどくさいだけじゃん」VS「いちいち正論で突っかかるようなめんどくさそうな女だと思われたら脱がせてもらえないじゃん」という、漫然とした主語のでかい概念に対し、件の祝辞では「めんどくさそうな女だと思われて何が悪い、女じゃねえ人間だこのやろう裸と性器以外でガチンコじゃ」という至極真っ当なことを言っているのである。服を着ろ。

 

 じゃあなんでこれだけ燃えているのかと言うとそりゃあ養老孟司という偉い先生が出した「バカの壁」という本に詳しい。バカの壁は大ヒットして続編や実例編もめっちゃ出ているが、要約すると人と人は分かり合えない(ということすら分かってもらえない)という内容だ。

 

 アホであるところの私の脳みそを通し、祝辞という綺麗な場でお茶を濁しまくった前半部、これを「脱がした後でめんどくさい女は脱がしたくないという風潮があります」と読み解くと、なるほどそらそうだと納得がいく。

 で、後半部は「女を脱がすかどうかで判断する前に服を着た状態で出してきた成果を評価して勝負しろや」というこれもまたなるほどなという納得がいく。よく男性向けの作品を作っている女性クリエイターが作中のキャラではなくクリエイター本人に性的な目線を向けられて迷惑しているというやつだ。

 

 ではなぜこの祝辞が波紋を呼んでいるのかと言うと、前半の「脱がした後でめんどくさい女は脱がしたくないという風潮があります」はミクロの話で、後半の「女を脱がすかどうかで判断する前に服を着た状態で出してきた成果を評価して勝負しろや」はマクロの話なのだ。そう、残念ながら前者と後者は独立の事象なのだが、残念ながら主語の分解能力に難があるとミクロの話をマクロに適用してしまえるような気がしてしまう(逆もまたあるだろう)。

 

 マクロとミクロは差別と自由選択、とも言い換えられると私は思う。「私は○○人が嫌いだ(から仕事上不利な取り扱いをする)」は糾弾されるが、「私は○○人が嫌いだ(から交際相手には選ばないし結婚もしない)」は十分に有り得るだろう。

 

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、という諺があるように、残念ながら成果が素晴らしいことと、人間として、場合によっては性的に好みである、好きである、愛せるという部分は切っても切り離せず、複雑に絡み合う。

 

 残念ながらミクロ視点で交際相手として好まれたこともなく、さりとてマクロに成果物がヒットしたこともない凡才のひとりとしては、東京大学に入学できたという非凡な才能を活かし、余すところなく活躍してくれたらいいなと、心からそう思う。

 

 そう考えると学術論文に限らず、性別がわからないような中性的な名前で活動し、ふだんは姿を現さないというのは本当にストイックなことだ。なにしろファンやフォロワーに手を出そうと思っていれば自己顕示欲から生身の自分が露出してしまうだろう。絵師さんでも時折おられるが、ただただ絵をアップするだけで普段の生活感はなく、性別も年齢も分からないという高尚なスタイルには憧れる。

 

 つまるところ、件の祝辞は「女絵師でシコるな絵でシコれ」をアカデミックな場で上品に申し上げるとそうなりますよという雑な理解でひとつ筆を置いておきたい。

 

 

 それはそうと東大の水色のチアコスえっちだと思うんだよな(台無し)。