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新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

じゃないけど

 感情の整理がつかないときに口からとっさに出る言葉というのがある。時と場合によっては口から発声されないこともあれど、思うことはよくある。こういうときに私は頭の回転が遅いのだなあと自覚するのであるが、今日はそんな、とっさのことで頭が整理しきらない感情と深層心理の適当なお話をしようと思う。

 

 時と場合により人間生きていれば「向こうの不手際」で話をする機会というのもあるだろう。何をもって不手際で何をしてほしいのかというのはケース・バイ・ケースであるが、例えば近々の予定がダメになってしまってそれの理由を聞かされるであるとか、例えばたいへんに義理を欠いたとか、まあなんでもいい。単純にテーブル挟んで向こう側の人間や法人に落ち度があるときのお話である。こういうときに態度をでかでかとしてブチ切れながらテーブルにカカトを落としてみたりコップをその場で叩き割ったり……できるほどの度胸はないので、私の場合はたいていヘラヘラと「そうですね、そちらさんにもそちらの都合がありましたもんね」みたいなツラをして向こうの言い分を聞くこととなる。それでいて相手方が心底申し訳なさそうにしてくれれば「まあ、向こうはスジを通したし悪いようにはしないだろうなあ」と引き下がることもできよう。ところがどっこい、向こうの態度身なりうっかり発言その他に心底申し訳なさそう"ではない"言動の端が見えてしまった時、心のなかで思うのだ。

 

 「いや別に謝ってほしいわけじゃないけど……」と。

 

 そして、そう思ったことに対して自己嫌悪である。何故か。簡単だ。問題が解決されたのにもかかわらず一瞬でも「謝ってほしいわけじゃないけど」などと、感情の問題が心のなかに起こることだ。普段から口では旧来型のジャップな感情労働を排斥し、ホワイトがどうのブラックがどうのと上から目線で叩くにもかかわらず、自分の奥底では感情に響く謝罪を一瞬求めてしまうのだ。口では、手続き上では相手方に「解決」を求めており、けして「しゅんと小さくなって私が悪うございましたというような感情を全身で表す謝罪」を求めてはいないはずなのに、とっさに思う感情は「いや別に謝ってほしいわけじゃないけどその態度は違わねえか」なのである。うまく行かねえなあとひとり反省会。

 

 そんなわけで自分が謝るときは相手にモヤっとさせないような、骨の髄からしっかり芝居を打って、相手の感情にも訴えるようなジャパニーズトラディショナル土下座ができたら良いだろうなあというのが自分用のフィードバックであろうか。いくらブラック企業、ブラックな行為、イリーガルな行為を排斥して排斥して浄化して行こうとも人間最後は感情で揺れ動くのだから、感情に訴える芝居が打てて一人前なのかもしれない。そして、どこかプライドがその芝居を恥ずかしがるようではビッグになれねえなあということか。

 

 別に謝罪に限らず、他人の心に訴えて自分に利があるように動かしたければ人生万事舞台の上で芝居打ってるのと変わらねえなあという話は前にした気がするのを思い出した。結局感情一般か謝罪にピントを合わせるかで言ってることは変わらないのであった。

sasamatsu.hatenablog.jp

 ブラック企業を排斥し、恋愛資本主義(資本主義による恋愛?)も排斥し、となると行きつく先は人間の差異を一切認めず単一のプロダクトを延々生産する社会主義国家の工員となりアトランダムに配偶者を選ぶディストピアの到来であるから、自由に則ってブラック企業が徐々に人気をなくし、自由に配偶者が選べる今の世のほうが暮らしよいのかもしれない。

 

 角川いつかの著書『成功する男はみな、非情である。』には多数の成功者が事例として出て来るが、単に上記のような"人間的な"感情を表に出さず、さりとて相手の感情を読んで適切に訴えることができる芝居が上手である、というふうに私は読み取ったが、いかがだろうか。

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 私は女性に抱きしめられるとしゅきしゅきだいしゅき愛してるしか言えなくなるようにできているから、感情を表に出さず成功者となることは難しいだろうなあと思うけれど、ポーカー・フェイスに定評のある諸氏は"成功者"の"芝居"を打ってみるのは如何だろうか。

 

 とはいえ、女を抱いてる時ぐらいは感情丸出しでも良いのではないだろうか。

 

 なんでも良いから膣内に出させてっ!