ひとり旅
なにをもって「旅」とするかの定義は非常に難しいと思います。鉄道会社としては、きっぷを買って電車に乗った時点で「旅客」ですから、たとえ隣の駅が目的地であったとしてもそれは「旅行」ですし、何かしらの都合で列車の運行に支障をきたしてしまい、持っているきっぷを払い戻してもらった場合は「旅行を中止した」ということになります。
田舎でも中学生くらいになるときっぷを買ってひとりで、あるいは友人と出掛けることもあるでしょう。都会のように小学校のうちから一人で電車通学というのはあまりメジャーではないように思います。しかして、小一時間かけて県都・高松に向かい、宮脇書店とアニメイトに寄って夕飯までに帰ってくるあれを「旅」と称するのもなんだか違う気がしています。
四国という土地から出るにあたっては明確に海を渡るという儀式めいた行為があります。道路であれ、鉄路であれ、海路であれ、空路であれ、です。我々は瀬戸内海を越えねば本州へは出られない。ではここで、初めてひとりで海を渡り、「旅」をしたときの記憶を思い起こしながら書いてみることに致しましょう。
2007年は、国鉄のおしまいから20年。つまるところJRグループ発足20周年でした。この年の、春の「青春18きっぷ」は、JR発足20年を記念して国鉄時代の値段、5回8,000円で売られていました。当時一緒に住んでいた伯母が、何かの資格を取りに岡山を4往復するのに買ってきて、1回余ったからと寄越してくれた記憶があります。
さて。私はこの年のはじめに、私が甘えればなんでも買い与えてくれて、どこにでも連れて行ってくれた、母方の祖母を亡くしています。それまでは大阪へ行きたいというと、祖母の財布から阪神往復フリーきっぷを買ってもらい、携帯電話を持っていない奇妙な老人と中学生が大阪をほっつき歩いていたのですが、そうもいきません。
折しも春からは高校生に上がるということで、真新しい東芝の携帯電話も買い与えられたばかりです。そして、手元に、ラスト1回分の青春18きっぷがある。
そうだ、ひとりで大阪へ行こう。日本橋の電気街で電子工作の材料を買い足そう。
そう考えて、時刻表を読んでいったのでした。大阪までは概ね片道4時間半ほど、乗り継ぎを間違わなければ始発で出て、買い物をしても、夕飯までには帰ってこられる算段です。
琴平駅から出る上りの始発列車は6時すぎと、少々ゆったりした時間に設定されていました。多度津駅からやってきた4両編成の電車が上り本線に6時前に到着し、わらわらと乗務員さんが何人も降りてきて、真ん中で2両ずつに切り離します。
2007年3月30日は平日・金曜日ですが、田舎の始発電車はガラガラで始発駅を発車しました。椅子も選び放題ですが、どことなく落ち付かず、一番前の半室運転台の助手側にかぶりついて土讃線を上っていきます。善通寺・金蔵寺と停車して、多度津で一気に線路がにぎやかになり、予讃線と合流します。
讃岐塩屋を出て高架橋に上がり、丸亀・宇多津と止まっていきます。本当は、瀬戸大橋というのはこの宇多津から本州へ向かって架かっていますが、直接向かう普通列車は当時で1日6本しかなく、2022年現在では1本もなくなり、特急列車しか走っていません。したがって、地図で眺めるとだいぶ間抜けなことなのですが、瀬戸大橋を渡る快速マリンライナーが止まる坂出駅まで、これから渡りたい瀬戸大橋に背を向けて向かうことになります。
やってきた松山・高知方面と、瀬戸大橋の先・本州方面と、坂出・高松方面の3方向がダイナミックに高架橋で結ばれており、俗にここを指して「宇多津のデルタ(線)」などと言うこともあります。列車は一気にスピードをあげてデルタ線を走り抜け、山を切り通した区間を通って坂出駅へと入っていきます。
琴平からの始発列車はここ坂出で、岡山からやってくる高松行きの快速マリンライナーに先を譲ります。
さて、坂出では20分そこそこの乗り継ぎ待ちとなります。当時はどうだったか、快速マリンライナーの中でも、これから乗る8号と、2つあとの12号だけは、編成を3つ繋いでいてとても長いのです。岡山県に渡ってから通勤通学で混むからという事情のようです。当時は網干所属の新快速電車から中間車を借りパク……いえ、リーマンショックの後にきちんとお返ししたはずです。なので、3+3+3の、首都圏顔負けの9両編成で高松から岡山へ殴り込んでいました。
9両繋いでいるマリンライナーとはいえ、ほどほどに椅子が埋まった状態で発車し、来た道をほぼ引き返すように宇多津の手前までやってきて、制限60 km/hの分岐器をドスンドスンと渡って、瀬戸大橋へと差し掛かっていきます。
橋の区間は、結んでいる島の住人に配慮してか、最高速度は95 km/hということで、どこかのんびりした走りという印象を受けます。
9,368mの瀬戸大橋を渡りきり、高架橋に切り替わって岡山県は児島駅へと到着し、ここから先はJR四国から代わってJR西日本の区間となります。乗務員も交代し、さあ本州だ、どんどん行こう……と思うのですが、悲しいかな快速マリンライナー8号という列車はのろいのです。朝ラッシュ時間帯の瀬戸大橋線を、単線区間に入り、各駅でもたもたと、行き違い列車を待ちながら60 km/hにも満たぬ速度でトロトロと進んでいきます。これは遅延が出ているのではなかろうかと思いきや、ばっちり定刻です。なんでだ。なんもかんも瀬戸大橋線が複線になってないのが悪い。
ようやっと大ターミナルの岡山です。このマリンライナーはひとつ手前の大元にも停まります。大元を出て岡山駅に滑り込……むと形容するにはもたもたと、またのんびりのんびり岡山駅へと入っていきます。岡山駅のはるか手前から黄色信号で制限を受け、ホームの手前ではまた改めて黄色2発点灯の「警戒」で最徐行で入るように指示されているようです。線路の先が行き止まりで……とかとか保安上の事情もあるようですが、これがまた大ターミナル駅手前でもたもたしている感じがぬぐえない。
そうしてのろのろと岡山駅へと列車が入り、ゆるゆるとドアが開いたら4番乗り場へダッシュします。なぜならば次の山陽本線上り相生行きが2分の接続で出てしまうからです。なんでや。もうちょっと瀬戸大橋線をチャキチャキ走れば余裕があったじゃろう。
残念ながらここの2分という接続は無理があったようで、この翌年あたりに接続がマイナス3分、マリンライナーが着く前に相生行きが出てしまうダイヤに変わってしまいました。岡山白陵高等学校に通う生徒さんはこの接続変更で家を出る時間が30分早くなってしまったのではないでしょうか……。
さて、山陽本線です。満員です。前述の岡山白陵高等学校への通学客でぱんぱんです。下車駅は熊山、それまでの辛抱ですが、相生行き1304Mは4両しかつながっていないのでぱんぱんです。……3月30日だったはずなのですけれど。私立だから模試とかやっていたのでしょうか……。
熊山でどうにか空きましたが、椅子にはありつけずに船坂峠を越えていきます。115系電車が峠に達し、たんたんと相生へ向かって下っていきます。
ようやく乗り継ぎの相生駅です。右手からはほぼ同時に播州赤穂からやってきた姫路行きの4両編成が寄り添うように同じホームの向かい側へ入ります。そうです。4両から4両への乗り継ぎです。また姫路までの30分は立っていくことになりそうです。
やっと着いた姫路駅では一気に当駅始発12両への乗り換えとなり、並ぶ位置さえしくじらなければ座ることは容易です。ここで新快速に乗ってしまえば、1時間座っているだけで大阪に到着です。
明石の天文台や明石海峡大橋、瀬戸内海を眺めて列車は神戸へ、大阪へと進んでいきます。
新快速電車としては中間地点ですらない大阪駅でようやっと降ります。ここまで約4時間半かかりました。青春18きっぷを最大限に活かすため、大阪環状線に乗り換えて新今宮まで向かい、そこから1キロ少し歩いて電気街へ向かうことにしたはずです。
環状線で新今宮に降り立ち、堺筋を北へと歩いて日本橋の電気街に到着です。共立電子と、ニノミヤと、ジョーシンと、ソフマップあたりに寄って、阪急そばで昼ごはんを食べてから来た道を帰りました。ニノミヤと阪急そばはなくなってしまいましたね……。
そんなこんなで帰り道です。帰りは播州赤穂行きの新快速電車に乗り、ここで席にありつけたのは良いのですが、青春18きっぷ初心者なので、大阪駅で端に乗ってしまいました。もうお分かりでしょうか。相生駅で、岡山行きの3両編成へのイス取りゲームで負けることになります。そうです。播州赤穂行きの8両編成に乗るときは、真ん中の4号車か5号車に乗っておき、更には相生駅到着前に進行方向右側のドア前の最前を確保しておき、そして、ドアの目の前が階段の壁やエレベータに遮られていないことを祈りながら、同じホームの向かい側で待っている岡山方面の電車の、どのドアめがけてダッシュするかを考えてないといけないのです。
有年、上郡、三石と進んでいく115系の一番後ろにのり、淡々と流れていく線路を遠い目で眺めます。けして車掌に物言いたそうな目で座れないことを訴えているわけではありません。あまりにも疲れた顔をしているからか、車掌が気の毒そうな顔でこちらをチラチラと見ている気もしますが仕方がありません。事実疲れています。
時折車窓からは山陽新幹線の高架橋が見え、猛スピードで新幹線が走り去っていきます。あれに乗りたい。石油王になりたい。夕闇迫る山陽本線の窓越しに、疲労のピークで眺めた新幹線のぞみ号は、ひときわ輝いて見えるわけです。将来は大金持ちになって何のためらいもなく新幹線に乗れるようになりたい。そういう思いを新たにしました。
相生駅で別れていった赤穂線と東岡山駅で合流し、旭川を渡って列車はようようやっと岡山に到着です。四国へ行く快速マリンライナーももちろん待っていましたが、夕方で混んでいたので、時間が余計に30分掛かるのは承知の上で、琴平行きの各駅停車に乗り込みました。動き出すまでは起きていられたような気もするのですが、橋を渡った記憶はなく、意識が戻ったのは琴平駅直前の、金倉川の橋梁を渡っているところでした。
今では移動にまるごと1日を充てるような旅行をするほど連休が取りにくくなってしまい、あの頃のように気ままに鈍行でズルズルと何日も旅をして暮らすためにも、やはり宝くじを当てて悠々自適の生活を送るほかなさそうです。