新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

ろうしきょうてい

 過労死の認定って詳しいことはともかくさておき、前職の労使協定における時間外上限は月に100時間でした。辞めるちょい前に「80時間超えると労基が様子を見に来るらしい」という理由で事実上これが80時間と相成りましたが、もともとが100時間ですので、それまで人間は所定の勤務時間に増すこと100時間使えるものとして仕事量を設定していると80時間を超える人が出ます。すると少々であれば交代で平日に代休を無理に取らせて8時間ずつ捻出してみたりだとか、タイムカードを切ってからもなぜか現場へ戻っていったりだとか、そういう光景を度々目にすることとなります。幸いにして私が居た部署は少人数で、上司にスタンスを明らかにすれば、理不尽な仕事量が降ってくることもなかったのですが、激務の部署に転属になりゃしないかとヒヤヒヤしながら過ごしておりました。

 

 どうであれタイムカードにより計算された時間外手当が出るということは36協定による労使間の合意が取れているということになります。労使間の合意がないと1秒たりとも時間外労働をすることは"違法"でありますから、時間外の上限が100時間と決まっているということは労使間の合意があることになります。

 

 では、その合意というのはどういうふうに取られているのでしょうか。お昼休みに労働者側の代表が食堂で何かを言い始めます。

「去年度の時間外の上限は100時間でした」

 なるほどなるほど

「事業所の社員の平均は75時間でした」

 けっこうみんな頑張るねえ

「なので80に減らしても良いのですが」

 そうですね、そうすれば仕事が偏って負担がかかっている人が減りますね

「80時間を超えたときに残業代が出なくなっても困るので100時間のままで行きたいと思います。反対意見がなければ……では100時間で行きます」

 えっ

 Why Japanese people.

 いまなんと仰った。

 労使協定以上の残業は"存在してはいけない"のであってけして"残業代が出なくなる"とか"労使協定のぶんを超えたらサービス残業になる"というのではないのであるが。今の労働者側の代表氏の説明を死んだ目しながら弁当食べつつ聞き流す行為が"労使間の合意"だったのか。ひでえものだ。そしてコストコストとふだんからうるさいせいで"なぜ残業を多くつけるのか"と叱責するセンパイが現れ、"残業いくらでもつけて良いから稼ぎたきゃ言ってね仕事振るから"と言ってくれる管理職が現れる。もはやどっち側が使用者でどっちが労働者なのか分からねえ。大変混沌とした現状だ。

 

 現代の若者が求めているものは3つである。

おかね

おっぱい

おやすみ

 この3点を抑えれば人材確保は容易である。というか昔のほうがこの3点は抑えられていたのではないかと思う。おかねは言わずもがな、給料は毎年伸び行きボーナスが年間3回出てみたりした。おっぱいも上司が風俗連れてくとか嫁はん連れてくるとかしてなんとかした。お休みも土曜が半ドンだか知らないが日曜はお休みであった。

 

 とは言えノスタルジックにひたひたちゃぷちゃぷと浸るほど歳を食っちゃいないし激動だか何だか分からない時代を生きていかねばならないから現状で一番死ななそうな道を選んで歩まねばならない。おかねも少ない、おっぱいから遠い田舎の山の中、おやすみも部署によっては危ぶまれる、となると職場としての引力は乏しいわけであるからなるほど優秀な人材が残らないのかという考えに至れてもあまり不思議ではない。入社して最初の土日に飛田新地を共に歩き、「俺は行くぞ!」と料亭に吸い込まれた決断力に優れた同期はとうに退職した。なるほどいま求められるのは「ダラダラと旧来型の暮らしを続けダラダラと仕事をしダラダラと長く変化を求めない生き方」ではなく「やめる力」なのではないか。「去年もやったから」「毎年やってるから」「昨日もやったから」とダラダラ続けるのはよくないのだ。今日出勤したから明日も出勤するような、数学的帰納法みたいな生き方をするから円環の理から抜け出せないのだ。

 

 ……と、ここまで深く考えたかどうかはさておき、100時間も時間外労働をしたら人間死んでみよっかなとか考えるようになるのだから辞めたほうがよろしい。9時半に会社を出て翌朝6時起きとか人間のすることではない。17時に会社を飛び出して17時半に家につき、夕食を食べて中出しセックスして風呂から上がれば21時で良い感じにクールダウンして副交感神経が元気になってきたらスヤスヤと8時間寝て朝6時、というのが健康的な労働生活と言うものではないか。ここから中出しセックスを差し引いた8時間睡眠をしていた頃が一番クリエイティブな仕事をしていた記憶がある。

 

 

 

 労働は悪い文化、中出しセックスは良い文化。

じゃないけど

 感情の整理がつかないときに口からとっさに出る言葉というのがある。時と場合によっては口から発声されないこともあれど、思うことはよくある。こういうときに私は頭の回転が遅いのだなあと自覚するのであるが、今日はそんな、とっさのことで頭が整理しきらない感情と深層心理の適当なお話をしようと思う。

 

 時と場合により人間生きていれば「向こうの不手際」で話をする機会というのもあるだろう。何をもって不手際で何をしてほしいのかというのはケース・バイ・ケースであるが、例えば近々の予定がダメになってしまってそれの理由を聞かされるであるとか、例えばたいへんに義理を欠いたとか、まあなんでもいい。単純にテーブル挟んで向こう側の人間や法人に落ち度があるときのお話である。こういうときに態度をでかでかとしてブチ切れながらテーブルにカカトを落としてみたりコップをその場で叩き割ったり……できるほどの度胸はないので、私の場合はたいていヘラヘラと「そうですね、そちらさんにもそちらの都合がありましたもんね」みたいなツラをして向こうの言い分を聞くこととなる。それでいて相手方が心底申し訳なさそうにしてくれれば「まあ、向こうはスジを通したし悪いようにはしないだろうなあ」と引き下がることもできよう。ところがどっこい、向こうの態度身なりうっかり発言その他に心底申し訳なさそう"ではない"言動の端が見えてしまった時、心のなかで思うのだ。

 

 「いや別に謝ってほしいわけじゃないけど……」と。

 

 そして、そう思ったことに対して自己嫌悪である。何故か。簡単だ。問題が解決されたのにもかかわらず一瞬でも「謝ってほしいわけじゃないけど」などと、感情の問題が心のなかに起こることだ。普段から口では旧来型のジャップな感情労働を排斥し、ホワイトがどうのブラックがどうのと上から目線で叩くにもかかわらず、自分の奥底では感情に響く謝罪を一瞬求めてしまうのだ。口では、手続き上では相手方に「解決」を求めており、けして「しゅんと小さくなって私が悪うございましたというような感情を全身で表す謝罪」を求めてはいないはずなのに、とっさに思う感情は「いや別に謝ってほしいわけじゃないけどその態度は違わねえか」なのである。うまく行かねえなあとひとり反省会。

 

 そんなわけで自分が謝るときは相手にモヤっとさせないような、骨の髄からしっかり芝居を打って、相手の感情にも訴えるようなジャパニーズトラディショナル土下座ができたら良いだろうなあというのが自分用のフィードバックであろうか。いくらブラック企業、ブラックな行為、イリーガルな行為を排斥して排斥して浄化して行こうとも人間最後は感情で揺れ動くのだから、感情に訴える芝居が打てて一人前なのかもしれない。そして、どこかプライドがその芝居を恥ずかしがるようではビッグになれねえなあということか。

 

 別に謝罪に限らず、他人の心に訴えて自分に利があるように動かしたければ人生万事舞台の上で芝居打ってるのと変わらねえなあという話は前にした気がするのを思い出した。結局感情一般か謝罪にピントを合わせるかで言ってることは変わらないのであった。

sasamatsu.hatenablog.jp

 ブラック企業を排斥し、恋愛資本主義(資本主義による恋愛?)も排斥し、となると行きつく先は人間の差異を一切認めず単一のプロダクトを延々生産する社会主義国家の工員となりアトランダムに配偶者を選ぶディストピアの到来であるから、自由に則ってブラック企業が徐々に人気をなくし、自由に配偶者が選べる今の世のほうが暮らしよいのかもしれない。

 

 角川いつかの著書『成功する男はみな、非情である。』には多数の成功者が事例として出て来るが、単に上記のような"人間的な"感情を表に出さず、さりとて相手の感情を読んで適切に訴えることができる芝居が上手である、というふうに私は読み取ったが、いかがだろうか。

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 私は女性に抱きしめられるとしゅきしゅきだいしゅき愛してるしか言えなくなるようにできているから、感情を表に出さず成功者となることは難しいだろうなあと思うけれど、ポーカー・フェイスに定評のある諸氏は"成功者"の"芝居"を打ってみるのは如何だろうか。

 

 とはいえ、女を抱いてる時ぐらいは感情丸出しでも良いのではないだろうか。

 

 なんでも良いから膣内に出させてっ!

ぷちぷち

 今日はぷちぷちの話。ロール状になった状態で納入される汎用のエアパッキンを俗にプチプチと呼ぶこともあろう。ところがこいつの"プチプチ"というのは、使用済みエアパッキンを手慰みにぷちぷちと潰していく音から生まれた言葉であり、一般家庭においてエアパッキンがゴミであり不要物であることがわかる。つまるところプチプチというのは不要物を潰すときのオノマトペであろうと推測される。

 

 つまりエロ漫画でよくある「濃すぎて精子がプチプチする~♡」なる口内射精からの飲精シーン、これもまた射精者の精子が不要物であり、不要物を潰す際のオノマトペガイドラインに従った使用例である。当然、実際の精子は人体で一番小さな細胞であり、イクラを食べる時などに生じるクリック感は感じない……はず……。もし感じたとしたら貯めすぎた精液が摘めるほどに濃くなって膜状になってその部分がプチプチした食感を生んでいるのだろう。どちらにせよ不要物を受精しない消化器官に送り込むべくゴックンされてしまっているのになぜか嬉しい深層心理。射精前後の男は偏差値がマイナスにめり込むレベルでアホになっているから女体に精液が受け入れられると満足するのではないか。なんたる構造上の欠陥。本番禁止のデリヘルが苦し紛れにアナルファックのオプションを用意しているのもそういう理由か。それとも一般的にコンドームを付けてセックスをすると精液はコンドームごとゴミ箱に捨てられてしまうから悲しいという理由で精液を飲む行為が生まれたのか。なるほど苦肉の策か。女体に精液は受け入れられるが受精はしない。飲精というのは論理的な避妊策の一種であったか。なお、単に「プチプチ」と言う音の字面だけ再現するならば出したての濃い精液をふとももで"ぷちぷち"とすりつぶせばよいだろう。

 

 とはいえコンドームをつけたセックスよりも生でフェラチオしてあまつさえ精液を口に含むという行為は危険である。構造上弱い口や食道の粘膜に長時間精液を置いておくよりはとっとと飲み下して胃酸(塩酸)で病原体を変性させてしまうのが吉であろう。別に精液を飲む行為に対して正当な理由をつけているわけではなく合理的な話である。ティッシュに精液を吐き出す際に舌をティッシュで傷つけるとたいへん感染のリスクが高まるし、だったらば飲み込んでもらって酒なり水なりで流し込んでもらってうがいしてもらうのが良い。精液出した方は飲んでもらって満足できるし。

 

 そのように考えると生の粘膜で精液に触れたり飲んだりするよりもとっととコンドームつけてちんちんをしかるべきおまんこに入れてしまって満足させて寝かしつけてしまうのがいちばん安全だということがお分かりいただけるだろうか。当然、お互いに性病検査してピル飲んで生でセックスするのが一番満足感が得られる。大昔に小学校の図書室で読んだ性教育の本にも、生セックス膣外射精は「避妊にもならない上にクライマックスでペニスを抜かれてしまう女性にとって満足感に欠ける」とかいう記述があったし、だったらば隔てるものもなく生で膣内射精するのが双方満足できる最高のセックスであろう。ピルの普及と性病検査がセットになれば明日は今日より確実に楽しくなる。

 

 もうすぐクリスマスですね。うっかり妊娠したりさせたりして大変なことになったら(傍から見るぶんには)とても愉快だと思います。

 

 相手をしてくれる子宮がほしい。

期待と諦観

 昨日、twitterで「他人に対する期待値をどんどん下げていくと他人にやさしくなれる」という自説を提唱したところ、

 

 

 そ、そうですね。確かにそんな気がします……。

 

 他人に対して過大な期待を抱かない、そうして私は優しい優しいと言われてきましたが、どうやら人生一般に諦めていたようです。なるほど。最近では実の父親に「優しすぎる」とか言われて少々凹んだりしましたが、僕は元気です。ということはもう少し他人に期待しても良いのでしょうか。宝くじの当選ぐらいしか期待ができません。人が介在しない確率論にすがるしかないのでしょうか。こういうときに宗教が強い。

 

 人間誰しも否定されたくない、むしろ肯定されながらにして頭をヨシヨシと撫でられたいレベルのことがあります。それは自分の過去です。逆に言うと過去を否定されるのは相当つらいことと相成りまして、当たりどころが悪いと心にクリティカルヒットしてしばらく立ち直れないようなことにもなりかねません。そして、往々にして自分の過去、基礎、地盤、歩んできたコースを否定する存在と出会うことになります。当たり前です。社会は広いのですから自分の予想を遥かに超える存在や、自分とは正反対の存在と出会います。幸いにして多様さをうまく受容することができれば愉快な人生が送れるかと存じますが、不幸にも目の前の存在から勝手に「自らの過去を否定されている」と感じてどんどん歪むことすらあるのも事実。勝手に苦しめと突き放すのもひとつの手ですし、なにより手に負えないのに構っていると痛手となりかねません。

 

 オタク界にはたいへん有名な台詞があります。「認めたくないものだな、自分自身の、若さ故の過ちというものを」 という、シャア・アズナブルのセリフです。逆説的に言えば自分の過去*1を否定できるようになったら大人ということです。ただし、自分の過去は否定できても、他人の過去をどうこうする、というのはなかなかレベルの高いことであって、しかしながらオタクはこういうのが大好物なので手に負えません。

 

 つまるところ過去の自分の期待値の高さを否定することが現状を肯定しつつ精神科の世話にならない自分なりの手段であると考えます。過去の自分の期待値であれば今頃は東京近郊に家買って結婚してて子供が2人居て中の上ぐらいの暮らしをしているはずですから、日々変わりゆく世界の輪郭を的確に見据え、現状に見合った妥協案を自らに提示して脳内で妥結していくのが順当でしょう。

 

 自分はこれまで苦労してきたんだからタダで膣内射精ぐらいできてもおかしくねえんだよなあ←自らの過去を否定できていない一例

*1:1秒前も過去だ

こうつうあんぜん

 友人が遊びに来るというので高速バスの降り場からほど近いところへ迎えに行った。折しも朝のラッシュ時間帯と被り、幹線道路は交通量が多かった。ある信号で引っかかったので赤信号待機列の先頭で停車し、ケツから朝の貴重な時間と勝負するクルマのプレッシャーを感じながらアクセルをパカーっと開けて走行した。ふと物陰から青装束のオッチャンがなにやらマイクっぽいものに話しかけている。ふと思い出す。通称ねずみ取り。県警の手先である。やっべえ、後ろからのプレッシャーに負けて(ふわふわ) km/hで快調に飛ばしている。車列の先頭だ。やべえ。やべえ。空腹も手伝って顔面真っ青。あっ「止まれ」の手旗 with ヘルメットタイプの青装束。うへえ急いでるのにこんな近所で交通違反童貞捨てるのかよやってられねえなあと思っていたらオッチャンは私のクルマではなく2台後ろに停止命令。ああよかったとおもいつつも次からは1,700回転ぐらいでのんびり走ってやろう追い抜くなら勝手にどうぞとない胸を撫で下ろしつつ市街地へゆっくり急いだ。思えば最初のオッチャンの足元にスピード測定装置っぽいのはなかったから携帯かシートベルトの取締りだったのだろう。その辺触らないチキンで助かった。

 

 30日まで交通安全週間ですから貴重な虎の子現金をソープランドやラブホテルやおしゃれなレストランで使うべきであって県警に吸い取られないように安全運転しような。

オリジン

 おいしさの原点を追い求める弁当屋ではなく。オリジン。原点。見失いつつあるもの。

  と申し上げたところ、友人からツッコミが入った。私はハっとした。

 

 

 知らず知らずのうちに、世間の荒波に揉まれ、時代に迎合し、必然と自分の欲というものすらも見失い、ただただ身体を借り物として現世を生き流すだけの存在となりつつあった。そうだ、元来人間は利己的なのだ。利己的な遺伝子の乗り物として自分がある。世間が辛いので5人ぐらいまとめて妊娠させてそれぞれ競い合ってもらって仕送りまでして欲しい。働くママ、子育てするママ、家計を預かるママ、種付けするぼく。最高じゃないか。あまりに目に余る行動をすると寝首をかかれる心配をしなければならないから、どういうわけだか私のことを好きで好きでたまらなくて目がハートになっちゃうような女の子をどこかからピックアップすればよろしい。どういう修羅場になろうとも、私を殺して解決するという案が思い浮かばないくらいの愛で結ばれていれば良い。

 

 とは言えこのような構想もあながちぶっ飛んだものではない。なぜならばそういう時代が来ているのだ。これまでは男が稼いで女が付いてくる構図であった。しかし、一人あたりの所得はかつての半値にまで落ち、男女は同権を有するという見方が大勢となりつつある。そんな中で女性が絶対的な優位を持つことがひとつだけある。生まれる子供が確実に自分の子供であるという確証だ。男は生まれた子供が本当に自分の子供なのかどうかDNA鑑定をしないと分からない。ただこの一点だけは他に代えがたい。昔の男ほど稼がないのに家事も育児もしない、生まれる子供が自分のものか確証が持てない。なんの利点もないではないか。だからこそ我々は精液の価値を吊り上げていかにぐうたら生きるかという道を模索するべきではないか。子供を産みたくて産みたくて適齢期が過ぎ去る恐怖に怯える女たちから好条件を引き出すべきではないか。どうせ生まれてくる子供が自分のものかどうか確証が持てないのなら、女の方から精液くださいお願いしますと頭を下げに来るまで待てばよいのであって、まかり間違ってもタダでセックスするとか、お金を払って射精するなんていうのはご法度である。スト破りである。ATMと化してしまい、給料の大半を吸い上げられて小遣い制などに甘んじる輩には純然たる自己批判が求められる。そんな甘いことをするからみんな苦労するのだ。ラクをしたければ団結あるのみ。精液組合の誕生である。

 

 ところが、人間本質的な要求には抗えないように出来ていて、女の子の甘い香りを吸い込むとちんちんが無料で勃起し、甘い香りを吸わされながら金銭を要求されたとて判断力は泥酔状態と似たようなものになりつつあるし、射精する瞬間の偏差値はマイナス50であるからたとえその先がATMだろうと小遣い制だろうと「なんでもするから射精しゃせてくらしゃい~~~~♡♡♡」となるので本質的にはちょろいのである。精液組合でもって価値を毀損しないようにと思っても本能の前では本能寺燃やすより容易く組合が崩壊するのである。ああ悲しいかな本質的価値。若い女体はこの世で一番価値があるからそこに抗える男など存在しないのであった。第一部完。

 

 衆愚という考え方もあれど、枯れ木も山の賑わい的に国家というものは人口こそが多様性を担保する組織であるからして、昭和の高度成長期という時代において日本という国家は恵まれていたと言えるだろう。当然、マクロな国家は「何も考えずに結婚して何も考えずに出産する」ミクロな国民により支えられており、ミクロな家族内で起こるディスコミュニケーションそれに付随する機能不全家族や現代においては毒親と呼ばれる概念であったり、月並みな表現をするとすれば夫婦ゲンカに始まる家庭内不仲、現在ではメンタルヘルス案件であろう、いわゆる「○○ノイローゼ」と呼ばれるような種々の問題はミクロなものとして黙殺された。とはいえそういうミクロな問題を握りつぶしてなおかつての国家は成長し、どういうわけだかバブルが崩壊し、急速に増えた老人が財物を溜め込んで今日に至った。

 

 っていうめんどくさいことを考えずに膣内射精したら褒めてくれる彼女が欲しい。

不携帯

 今日は一日財布を家に留守番させて出歩いておりました。幸いにして商店に立ち寄ることなく帰宅したので会計の際についうっかり、という形で商店主に迷惑をかけることがなかったのだけは不幸中の幸いです。いつ、何があるか分かりません。いつもの道に露店が出ていて、探し求めていた伝説のゲームソフトが売られている、とか。あるいは、帰宅途中の道すがら、女子高生がひと晩いくらで買ってくれないかと交渉を持ちかけてくる、とか。そこまで不健全じゃなくてもラーメン食わせて風呂にでも入れてやって客用布団でひと晩寝かせたらたいそう喜びそうな家出少年がほっつき歩いてるとかいろいろ"不測の事態"はあるでしょうに、こともあろうに成人男性 without 財布。人間の価値は持っているお金でキマらないとはいえ、これはいかようにも格好がキマらない。むしろ少々脳みそがキマっているからこそ財布を持たずに家から出るのではないか。猛省しきり。

 

 かつてどこかで見聞きした心理テストがある。設問は

「友人が困ってお金を借りにきました。いくらまでなら貸しますか」

 というものだ。それに対する答えは、

 

「貸せる金額があなたの人間の器としての価格です」

 だった気がする。おおう。マジか。今日の私はプライスレス。そもそも財布を持っちゃ居ないのだから現金が出せない。笹松ドルとか手で書いて流通させるほかない。何を本位にして通貨を制定すれば良いのか。精液か。精液本位制。そのまま精子バンクに転用できそうな貨幣が出来上がる。適当にイケメンの精子でも混ぜとけば日本円に対して割合よろしいレートで流通できそうだが、古くからの言葉に「悪貨は良貨を駆逐する」ともあるから、ぶさいくの精子などはなから混ぜないほうがよろしい。分かりきったことだった。これから多くの人民をカモって巨万の富を得ようとするなら歴史から学べることは繰り返している暇などなかった。そうだ、それでいい。イケメンの精液に値段をつけて流通させよう。シコらないイケメンは生理周期ずらしておまんこを確保できるイケメンだけなのだからこっちに分があるぞ。どうせ捨てる精液を買い取って冷凍してバラ売り。ナッハハハ。ボロ儲けだ。

 

 ところがどっこいイケメンの精液を独占したい人々ってのは生理中でもねっとりフェラチオでぜんぶ吸い上げて転売を許さないぐらい独占欲強そうだし手を出したら刺されそうなのでこのブログに書いてあることを真に受けて刺されても知りませんよ私は。ノークレームでよろしくお願いしたい。

 

 不妊治療で種なし野郎が父親から精液もらって嫁はんに植える記事とか見るととっても高度なNTRだと思っちゃうけど、いつまでもキンタマが健全とも限らないし、何事も健全なうちにやっておくのが良いと思いますので、どうか、皆様、お排卵日。

 

 やっぱり膣内射精がナンバーワン。