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新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

村田沙耶香『コンビニ人間』のネタバレを含みます

感想 日記

 タイムラインを眺めていると、ふと、『コンビニ人間』の感想が流れてきた。どんぶらこ、どんぶらこと雑多なものごとが、歩く程度のスピードで流れ行くタイムラインは一種の窓とも言えるだろう。芥川賞受賞作品なのだから面白いのだろうと適当に結論づけて、ではいっちょう私も読んでみようと調べたところ、まだ文庫落ちしておらず、ハードカバーに手が届かない財布事情からして読むのは見送りかと考えた。しかし、なんとKindleでは半額分ポイントで返ってくるという。気がついたらポチっていた。そして、ふとんで寝る前にちょっと読もうと思ったら読破していた。自分でも何が起きたのかわからなかった。ハードカバー一冊をサクッと読み下すのが「ちょっと」と感じられるほどのめり込んでしまった。今日はそんな芥川賞受賞作品、村田沙耶香で『コンビニ人間』を読んでのあれこれをお送りします。以下ネタバレなどを含むっぽいので読んでからもういっぺん来よう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 よくある口の悪い2ch風に言えば、主人公の古倉恵子はいわゆる"アスペ*1"というか"サイコパス"というか、なんとも"ふつう"じゃない思考をする人物として描かれる。字面どおりに物事を受け取り、他人という存在に必要以上に興味を持たず、といった具合である。とはいえ、こういう症状というか特性というかはシロかクロかというようにゼロ-ヒャクで定義されるものではなく、家族が「どうしたら『治る』か」ということで苦悩しているのを「悪いことをしてしまったようだ」と感じ、以後なるべく自発的に行動しないようになるエピソード等、家族を苦しめたいくないという意思は確かに存在するのだ。……ただし、苦しめたくないけれども、相変わらず根底を流れる思考が"ふつう"ではないので、たいへんな方向へ行動するのであるが……。

 

 自我とはなんであろうか。自ら考えて我が道はどちらであろうかと進む意思のようなものと考えがちであるが、一般に自分が進む道というのは好きに選べるものではない、ということぐらい人生一般に苦労してきた読者諸賢にとっては既知のことであろう。四国の家に生まれて香川の西半分の中学校を卒業したら、進学先として選べる高校に灘高校開成高校は存在しないし、テレビに映る美人女子アナウンサーと恋仲になり結婚してセックスして子供を産ませることはできないし、日本の高校を卒業した次の進路としてマサチューセッツ工科大学が選択肢として現れることは難しい。京阪神や首都圏に生まれれば灘や開成も選択肢に上ろう。プロ野球選手として活躍できれば美人女子アナウンサーと知り合う機会もあろう。優れた頭脳に恵まれアメリカ合衆国で育てばマサチューセッツ工科大学を進路として選ぶのも現実的かもしれない。けれども我が道というのは決して自我100%で決めることはできない。置かれた環境、つまり場所、親、友人、教師、財産、時間、時期、身体能力、持って生まれた頭脳、等など……「手持ちカード」、俗に"手札"とも言うが、自分が使えるカードを上手に使ってうまく生きていくのが現実的な我が道というものであろう。自我が選べるのはせいぜい分岐点で進む方角程度であって、真っ白なキャンバスに好き放題描けるような人生はそうそうあるものではない。

 

 という手札の理屈に絡め取られると本作の主人公のような行動は出来ないわけである。男の子どうしが喧嘩していて、止めて欲しいという声を聞いたらどうするか。「先生を呼ぶ」か「2人をそれぞれ引き剥がして言い分を聞く」とか、そもそも面倒はごめんだと「傍観する」、忙しいから「無視」という、"ふつう"の手札が手元に浮かぶのではないか。ところが古倉恵子は「喧嘩を止める」には「片方が動かなくなればいい」としてシャベルで殴るのだ。おおうスプラッター……。気を失えば片方は止まるし、もう片方も呆気にとられて動きが止まる。結論としては確かに喧嘩は止まるのであるが、「そうじゃねえよ」と言いたくなる行為である。何をもって「そうじゃねえ」のかを彼女に上手く説明するのが難しいのだ。そもそも自分以外の他者がどういう手札を持って行動しているのかというのは分からないのだから。よく、「常識とは社会に出るまでに獲得した偏見のコレクションである」ということが言われるが、「違うゲームの手札を持ち込まない」というのが守れるかどうかとも言えるだろう。トランプやってるときに混ざってきてひとり麻雀牌を並べて「大富豪をする」とか言い出すやつは存在を認めたくないし、将棋のコマを碁石で囲い始めるヤツがいたら将棋盤をひっくり返したくなるだろう。

 

 途中、コンビニに「変な客」が来る。これもまた精神科へ連れて行くと何らかの診断がもらえそうなタイプの「手札がヘン」なひとなのだが、古倉恵子という人間はコンビニという場において「手札」が最強なので、手早く着替え、店長とレジを交代し、店長がその「変な客」を排除するという見事なファインプレーをするのだ。「コンビニ」にはマニュアルがあり、そして、そのマニュアルを逸脱するイレギュラーは店長が対応する、という大変優れた制度設計となっている(当然、店長は"使える"ものと仮定しての制度設計ではあるが)。明確な問題に対し明確な解決策が掲載されているマニュアルは、明確な問題に対し正しいかどうか分からない、「自分の手札」にある最短ルートで解決するたびに周囲の人間を悲しませてきた古倉恵子にとっては福音だったのだ。

 

 少々奇天烈な思考をするものの、コンビニバイトとしては手札が最強の古倉恵子が、白羽というクズ男を成り行き上家に連れて帰ってからの展開というのがまた抱腹絶倒である。30代半ばでコンビニバイトしかしたことがなく恋愛の経験もなく、という古倉恵子。古倉を腫れ物として扱っていたような"ふつう"の人間が、「家に血縁関係のない男性がいる」というだけで狂喜乱舞し、奇天烈な思考にさんざん苦しめられ、「治ってほしい」と願っていた妹ですら大喜びしてもらえると"理解した"あたりでもう腹を抱えてしまった。そして同時に、妹に感情移入してしまう自分に気づき、ああ、自分もどこか"普通"であったのだと安堵していることに気づくのだ。「同棲している」ことの意味、まわりの"普通の人々"が祝福だけして干渉してこなくなることの意味。どちらも分かってない古倉恵子がコミカルすぎて腹筋に優しくない。大喜びしていたにも関わらず、「普通の人々が干渉してこなくなって、どうやら自分も普通になったようだ」と思っている古倉恵子に対し絶望する妹のツラを想像するとむこう3年分の腹筋がパアになるような感覚すら覚える。

 

 人間の本質は変化であるが、同時に変化を面倒だと感じ、永遠に今日のような暮らしが続けばいいと思う部分もあるように思う。「コンビニの店員」として変化を望まない古倉恵子も歳を取り、周りから干渉される。普通でない姉がコンビニバイトという"普通"の大学生のようなことをし、安心していたら15年以上も同じことを続け、「他人が干渉してこなくて便利」とクズ男を浴室で飼い始める、これが身内に居たとしたら発狂モンだ。

 

 というわけで、「コンビニ人間」を読んでからこれを読んだ人はお疲れ様でした。主人公と主人公の妹、どちらに共感したでしょうか。べつに「治る」必要はありませんが、普通の皮を被ったほうが生きやすい場面もあるでしょう。「コンビニ人間」を読んでいないにも関わらず駄文を読んでしまった人もお疲れ様でした。2ミリぐらいでも本作を読んでみたいなあと思っていただけたならこれ幸い。本屋に行くかKindleでポチるかしてみてください。

 

 挿入だのセックスだの妊娠だのというフレーズが出て来るにも関わらず保健の教科書よりもエロくない文脈というのが作れるのだと感心しました。

*1:2chでよく用いられるような意味の言葉であって、医学的な自閉症スペクトラムの範疇に含まれるかどうかはここでは議論しない