新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

東大受験も怖いが本当に怖いのは家庭ではないか

 東大受験に関するnoteが2つ流れて*1くる。

note.mu

 

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 はじめに申し上げておくと私は東京大学の出身ではない。院だけロンダですらない(そもそも学士でアカデミックをギブアップした)。受験生であった時分に配点を調べてみたり、模試で理科一類の判定をしてみたりした上で、自分の学力が願書を取り寄せるに足らないと判断した、よく居るタイプの受験生だった。

 

 受験制度やら当時の配点やらについて語ると大学出て何年経っても受験の話を枕にする童貞みたいなのでやめておくとして、どちらのnoteにも、私が見て虐待であろうと判断する記述が存在する。「そこまでして東大行きたいか」と本人に問うても仕様のないことだ。何しろ虐待するのは親である。家庭は密室であるから常々申し上げている通り、一家の大黒柱がリビングで毎晩配偶者を縄で縛り上げてローソクを垂らしている光景が日常である、それが常識的な夫婦の営みである、とその家の子息が認識していても、おおよそそのイカレた常識観が遍く浸透することはないだろう。

 つまり、東大に非ずんば大学に非ず、と缶詰にされ、課題を課され、模試・過去問が解けないとぶん殴られたりメシが抜かれたりするような虐待を受けながら見事東大に進学し、それが成功体験となっている人間が生殖してこれを再生産(凄惨)するようなことがあってはならないのだ。そして、残念ながらこうして文字にして自戒の念を込めていても人間は弱い。少し圧力をかければ「言いたくはない」「こうしたくはなかった」等の枕を付けながらも自分が受けた仕打ちを再生産することはままあるのだ。

 

 別に自分の母親を批判したいわけではないが(ほら枕がついた)、私とて母にはさんざんやられてきた。冒頭に挙げた2つの記事と違うのは、私が普通科高校に進学した時点で母が満足してくれた、という点だ。母は事あるごとに自分が商業高校に進学し、受験科目が足りず、満足行く大学進学を諦めたという話をしていたし、(少なくとも高校入学までは)勉強が人生でいちばん大切であると言っていたし、私がそれに対し「本当に勉強が大事なのだろうか」と問えば激昂しながら運転中の自動車を海に向けて走らせ「このまま坂出港から飛び込んで心中してやる」と言ったのだ(そこで私は運転中の人間の機嫌を損ねてはいけないということを学んだ)。

 そこまでヒスを起こすほどの学歴コンプレックスですら、第一子である私が普通科高校へ入学した瞬間に憑き物でも落ちたかのように静かになった。記憶にある限り、高校進学後に母が私に対してブチギレ回したことはない。

 

 凄惨の再生産と言えば「お父さんが稼いできたお金だから」という言葉がある。これについてもあまり再生産はしたくないが(また枕がついた)、将来金銭的に追い詰められる状況で扶養家族に対しこのフレーズを使うのは卑怯であり人権侵害なのだろうが、チューブ型調味料のように圧力を掛けるとこの手のフレーズがにゅるりと飛び出すのは私が弱い人間だからだろうか。

 

 

 世界の輪郭が変わりゆく現代において、未婚の子と死別・離婚を伴った婚姻状態下で産まれた子に対する税制上の違いを含め、盛んに議論がなされている。家族とは密室であり、得てして問題がなければ理想的に回っていると解釈されがちである。カップルであれば違和感を抱いた際、一時的に「少し距離を置きたい」などとすることも出来るし、配偶者に問題があれば離婚もできる。けれど家族、特に独立前の子と親という関係性はやめることも難しければ一時的に距離を置くことすら難しい。下世話な例えで恐縮だが、自らの信ずる常識に照らし合わせて「親がおかしい」と判断し、自宅に子供を匿った場合は未成年者略取・誘拐となってしまう。個人は社会保障ではないため、児童相談所等然るべき機関に任せるのが保身も兼ねた正解となろう。

 

 

 これらの問題を解決する極端な方法が1つあり、生殖をやめればよい。将来的には、人間を増やしたければ超ビッグ試験管で肉体年齢18歳前後まで栽培し、一般的な常識とやらを脳みそに直接書き込む、そういう手段が採られても不思議ではないだろう。当然、今日の技術・倫理に照らし合わせてこれが不可能であることも承知している。

 

 賢者と愚者の話がある。前者は歴史に学び、後者は経験に学ぶというアレだ。私は愚者であるから歯が痛くなってから歯医者に駆け込み、有楽町のガード下みたいな音が自らの口から響くのを聞いて口の中に銀歯が増える。賢者は「歯を磨け」「定期検診に行け」という歴史に学んで永久歯を失わずに済む。

 

 私個人は愚者であり、どうも生物としての生き方を捨てることは出来ず、状況が許せば生殖したい、排卵日2日前ぐらいから「赤ちゃん欲しいの♡」とか言われながら愛する女性の子宮をどぶどぶと種漬けにしてやりたいという欲求を抱えながら生きていくことしかできなさそうだ。この記事に書いたようなことを常に戒めながら、しかしやはり人間は誤りながら生きていくしかないように思う。

 

 人生に二度目があればもう少し上手くやれる、この言葉こそが自らを愚者しめていると思いつつ、今日も異世界転生モノを面白えと読んでいるから救えない。

 

 そして今日もおっぱいは吸えない。

*1:裏の川ではなくtwitterのタイムラインの話