新スクの淵から

笹松しいたけの思想・哲学・技術・散文。

あなたが私にくれたもの(1)

 オレンジ色の……なんだっけ。これ以上踏み込んで記述すると日本音楽著作権協会にお布施をせねばならなくなるのでやめておこう。ジッタリン・ジンの「プレゼント」で検索検索ゥ。というわけで今日はプレゼントのお話。先日の誕生日に合わせて皆様から素敵な素敵な贈り物が届きましたのでここに記録がてらまとめておこうと思います。なお、誕生日プレゼントは誕生日前後半年間受け付けておりますのでどしどしお寄せください。

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1件目:いるかむちゃんから

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講談社現代新書「京都のおねだん」(ほしいものリストの品物)

・ゆずリキュール「梅乃宿 ゆず」(梅乃宿酒造)

TDK 婦人体温計

 以上の3点をお送りいただいた。京都のおねだんはちょっと読んでみたかったので大変ありがたい。ゆずリキュールは奈良の梅乃宿酒造の品でたいへん美味であった。そして婦人体温計である。婦人体温計……!?ナンデ!?普段から朝の挨拶でお排卵日とか幼なじみ彼女と排卵日中出しラブHとか安全日に思い切り膣内射精したいとか言ってるから*1かな????

 

 とはいえせっかく頂いた貴重な資料である。今後の人生で基礎体温を測って記録するシーンの描写をするときに婦人体温計の作画にも使える。スマートフォンにデータ転送できるということで、NFCでも搭載してるんかなあ、と思い好奇心から開封。測定完了時の「ピピピ」音を出すのと同じ圧電サウンダを用いてスマートフォンのマイクへなんと音声データで通信するというものだった。あまりのローテクさに驚いたが、転送すべきデータは小数点を抜けば4桁の数字だけであるから十分なのだろう。フリック入力で打ち込んでも大した手間ではないが、手打ちはミスるのだ。2桁目と3桁目を間違えると「36.54℃」正当のところ「35.64℃」と入力されてしまう。入力する指がスリップしてそもそも違う数値が入ることすらあり得る。

 

 何しろ基礎体温を測定するのは寝起きなのだ。寝起きに寝ぼけ眼でその上頭も寝ぼけているからミスしかしねえ環境下だ。然して基礎体温というのは安全日/危険日の管理に直結し、場合によっては人生や財産に関わる大変な問題である。だからこそ婦人体温計の開発者やアプリ開発者は指のスリップ・数値の読み間違いを防ぐべく、99%のスマートフォンに搭載されているマイクというデバイスを用いてデジタルでのデータ入力を廉価に実現したのだと思うと目頭が熱くなってくる。その開発者諸氏に敬意を表し

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 ルナルナをインストールした。

*1:自業自得といいます

ささくれ

 ささくれ、というと爪のところの皮膚が剥けてくるさまよりも木材が細く持ち上がってくるさまを思い浮かべてしまうが皆様いかがお過ごしだろうか。さかむけ、とか、さかもげ、と言ったほうがそれを指す気がしてくる。地域性の問題か、私の言語ライブラリに何かしらのバイアスがかかっているのか。別にきょうはさかもげの話をしたいわけではなく、デフォルメの話をしようと思う。

 

 デフォルメとは、対象を変形させて表現するというのがもともとの意味である。例えて言えばプラレール。現実の鉄道車両の長さ方向を極端に短くし、台車構造を廃して床板に車輪を2つ取り付け、フランジを廃し、パンタグラフは真上から見たように屋根に貼り付き……と、元々の車種が何であったかという情報を見事失わずして幼児向け玩具になっている。少々精密の方向に歩を進めてNゲージ鉄道模型ともなると、プラレールに比して精密にはなるが、それでも前面窓ワイパーは可動しないし、行き先表示もレールに乗った状態でグルグル動くかというと無理だから、やはり割り切ってデフォルメをする必要がある。

 

 では冒頭ででてきたささくれとデフォルメの話であるが、これは時間が限られた場合の話である。空間と言ってもいい。紙幅の場合もあろう。創作の話をする。現実でささくれを剥くことに特段意味はないことが多いが、ドラマ、演劇、漫画、小説、その他あらゆる創作物中において「ささくれを剥く」ことが何らかの文脈を有しない場合にはたしてささくれを剥く描写をするだろうか。たとえモデルになる登場人物が居たとして、その人物がささくれを剥いたとしても記述はオミットされるであろう。

 

 しかしながら文脈があれば良いわけである。例えばささくれを剥きすぎる人物が居たとして、その彼女が血までにじみ出たささくれ跡地を痛々しいと指摘し、癖なのだと言い訳をされると、むう、と不機嫌そうに指フェラチオを始めるシーンがあればそれは文脈上必要であろうから、渾身の表現力を持ってささくれを剥こうではないか。そのままオイオイと嗜めたところでえへへぇと指を離してくれたものの彼女の唾液でびちょびちょの指をそのまま口に運びたくなってきたらそう表現してもよかろう。何も普段から生々しくべろちゅーをキメている間柄でもいちど自らを離れた体液を味わわれるのはこっ恥ずかしいことこの上ない。えっちょっまってと言うのが間に合わずに唾液まみれの指を美味しそうに味わえばしてやったりだろう。うーん、デリシャスとでも言わせておけば濡れ場の導入としては及第点だろう。ばーかとか言いながらべろちゅーおっぱじめればあとは流れでお願いします。

 

 飲みながらセックスするという文脈が存在する麦茶を作りたい。

むぎ茶

 今日はむぎ茶の話をしようと思う。むぎ茶というよりは「冷蔵庫に常備されている茶系飲料」の広い話になるが、我が家においてはそれがむぎ茶であったからに他ならない。むぎ茶が抱える諸問題とそれぞれの解決方法を見出し、本質を探ることとする。

 

・飲料とコスト

 飲料とは即ち水分補給のための飲み物を指す。自宅にコーヒーメーカーがある場合は多けれど、給茶機があるというのは少ないように思われる。ここで既に私の偏見が入っている。給茶機が置いてある家庭は実は多数あり、私がこれまでの人生で招かれていないだけで、常にホットな茶系飲料がワンボタンで供給されるという家庭はあるかもしれないのだ。可能性を潰すような真似をするところであった。あぶない。閑話休題。したがって水分補給が出来れば一時期の荒んでいた私のように、コップに粗塩をひとつまみ入れたのちに水道水を注いで飲んでいても差し支えはあるまい。ミネラル分と水分が補給できる最低限度の文化的な飲料であろう。当然毎回粗塩をつまんでいては高血圧までのラストワンマイルをやすやすと走破し医療費増大を招くから大半は水道水をそのまま飲むこととなる。ここで重要となるのはその飲料に係るトータルコストの考え方である。水道水であれば飲料用とする量あたりの単価などタダ同然、粗塩もタダ同然、コップは寝る前に洗うだけで洗浄する手間もあってないようなもの、つまり水道水(ときどきwith粗塩)はほぼほぼコストがゼロとみなせる飲料である。逆にコストの高い飲料となると代表例はビール等の酒類であろう。まず入手するのに金銭的対価が必要だ。その上なんと酒税がかかる。缶ビールだったら買いに行って飲んで洗って潰してゴミ出しまでせねばならない。たいへんな高コスト飲料だ。

 では、むぎ茶の場合はどうだろうか。大きく分けて2つの入手方法がある。家で作るかペットボトル入りむぎ茶を買ってくるかだ。

 

・むぎ茶のコスト

 買ってくる場合は簡単である。ペットボトルの入手単価が即ちむぎ茶の単価となる。嫌儲スレッドなどでは「お茶で儲けやがって」などと言われるように家庭で作ればタダ同然のお茶ではあるが、衛生的にボトル詰めして物流に載せるとお金がかかる。

 ところが、家で作る場合のコストというのは定量化しづらい。何故ならば、家によってむぎ茶の作り方が違うからだ。貧困な私の頭で考えても、

(1)専用のボトルを用意し、時折漂白剤に漬けるレベルで洗浄する。むぎ茶は当然煮出しであるからヤカンで沸騰させた湯に茶葉を入れる。粗熱を取るために水道水を少し出しっぱなしにして冷却し、専用のボトルに詰め、冷蔵庫で保管する。ヤカンも当然洗剤等で洗浄する。

 

(2)専用のボトルに水道水を注ぎ、麦茶パックを入れ、そのまま冷蔵庫で水出しする。量が減ったらそのまま水道水を継ぎ足す。色が薄くなったら麦茶パックを追加する。ヤバそうだなと思ったら専用のボトルは水洗いする。茶渋がひどくなったら洗剤等で洗浄する。なお、当然前回洗浄日等の記録はしていないものとする。

 

 上と下で(1)から(2)くらいまでの違いはありそうだとわかる。ここで問題になるのは複数人でこのむぎ茶を飲用する場合である。極端な話をすると、(2)で作られたむぎ茶を許容できる人間と、そうではない人間が一緒に暮らす場合に問題が発生する。冷蔵庫のスペースというリソースは有限であるから製法の違うむぎ茶を並行製造するわけにはいかないであろうし、そうなると製造コストの高い手法でないと許せない人間がむぎ茶を作るか、あるいは買ってくることになる。その場合に相手方とむぎ茶の製法や購入についてコンセンサスが取れていれば問題は解決するが、この話し合いが決裂した場合は片方にストレスが発生し続ける。許容できないむぎ茶を飲むストレスか、あるいは一方的に製造・購入コストを負担し続けるストレスである。コンセンサスが取れる、というのは、劣悪ながら低コストなむぎ茶の条件(この場合は(2)である)を許容できる側が、高コストなむぎ茶の製造・購入にOKを出し、協力的に応じることを指す。

 コンセンサスを取るのは大変である。まず飲む量には個人差がある。この差を均等に受益者負担とするのはなかなか難しい話である。なぜならばむぎ茶のボトルにはガソリンスタンドのようにメーターがついていないからである。したがって多くの場合は「2本のボトルにて貯蔵し、1本が空になった時点でそれを現認した人間が作る」などのルールを制定することが考えられる。しかしながらこれは「空になった」状態の定義が難しいために争いの火種となりうる。ボトルの底に高さ5 mmほど残った状態で冷蔵庫に戻すと、むぎ茶アライアンスに加盟した別の人間に事実上製造を押し付けることが可能となる。こうして製造コストを押し付けられた側の取る策はいくつか考えられる。一つはその場で相手方を叱責し、製造を命じること。これはアライアンス加盟が2名の場合にのみ可能である。なぜならばアライアンスが3名以上の場合、誰が製造コストを押し付けたのか特定が困難となるからだ。一つは夕飯風呂掃除セックスその他の対価を渋り、事実上のストライキをもって対抗する方法だ。これもアライアンスが3名以上となると戦略が取りづらい。「むぎ茶ぐらいでガタガタ言うなよ」などと言われる可能性すらある。狡猾にも製造コストを押し付けたことを矮小化してあたかもこちらに非があるかのように話をすり替えている。

 かようにも揉めるのであればもういっそのこと水道水を飲めということにしてしまうか、あるいはペットボトルのむぎ茶を共同出資して買ってこいという話になる。お金で解決できることにはお金を払おう。貨幣経済は万歳である。縁側でセックスするシーンで置いてあるむぎ茶とお盆とコップがメーカーロゴ入りのペットボトルだったりすると情緒がないがしかたない。「持ちつ持たれつ」を許容していただけない場合はビジネスライクでいきましょう。

 

・むぎ茶の安全

 製法で味が変わるため家によってむぎ茶の味は異なるのだが、それはさておいて製法の問題というのもある。水道水を使った水出しむぎ茶が一番保存性が良いというのは意外に思われるだろうか。これには当然理由があって、水道水には消毒用の塩素が入っており、煮出しということで沸騰させるとこいつがぜんぶ抜けてしまうのだ。熱帯魚や金魚を飼育なさる方なら溶存酸素量が温度上昇とともに減っていく曲線を思い浮かべられるだろうか。気体一般にその法則が成り立つため、ボコボコと沸騰させると水中の気体はなくなってしまう。

 ……という塩素の話と真逆になるが、病原性大腸菌O-157を抹殺するには摂氏75度以上で1分以上が必要である。したがって75度より高い温度で煮出したむぎ茶をその温度のまま専用ボトルに詰めれば少なくともO-157は殺せることになる。あちらを立てればこちらが立たず、どちらがいいという結論は定量的に評価しないと書けないのでやめておくが、むぎ茶づくりにも少しばかりでいいから科学的な根拠を持ってやってみてはいかがだろうか。

 

 

 むぎ茶ぐらいいくらでも作るしボトルも洗うからむぎ茶飲みながらセックスしてくれる美人と仲良くなりたい。

初心者マーク

 正式名称「初心運転者標識」、俗称ヘタクソマーク*1とも言われたり言われなかったりする初心者マーク。大抵の場合は教習所卒業時に記念品としてもらえたり、あるいは自分で買ったりするのだろう。私は前者だった。郷里の教習所に実家から自転車で通い、MT5速のLPGコンフォートをまるでタクシー運転手にでもなったかのようにゴキゲンな讃岐路ドライブを2週間ちょい。「今、何キロ出てる?」「80ですね」「ここの制限速度は?」「50マイル*2ですかね」などというやり取りがあったかないかはご想像におまかせする。

 

 しかして、初心者マークは「免許取得後」1年間の掲示義務があるものの、それ以後の掲出義務はない。私は2011年の8月に自動車学校を卒業してから、教習所コンフォート以外のクルマをまともに転がすのは2015年の冬まで待たねばならない。従って私は公道上で初心者マークを掲示したことがないのだ。道路交通法に従えばなんら問題はないが、一抹の不安はあった。とりあえず親に免許を取らされたは良いが、携帯の契約ぐらいにしか使わない高価な高価な本人確認書類が一枚増えただけであった。

 

 とは言え、良くわからない田舎に住んでみると、高い金を払いながらも自動車を持たねば文化的な生活ができない。「何もなさすぎる」とはよく言ったもので、たとえ県庁所在地の中心市街地に住んだところで、ニトリもホームセンターも、デカい本屋も郊外のバイパスに沿って展開中である。道が狭い中心市街地を活用だ、コンパクトシティだと言っても生活必需品は郊外に出ねばまともに揃わぬ。何がコンパクトシティだ。お題目だけ唱えてどんどんドーナツ化。狭くて家賃の高い中心市街地ではなく、クルマの運転がしやすい郊外の市街化調整区域に建ったサブリースの築浅アパートのほうがよほど暮らしやすい。ま、昨今の住宅供給過剰でサブリース業者に騙されて残酷に泣いている大家もそれなりに居るのであろうが。

 

 

 初心運転者標識とは別に75歳以上の運転者が掲出する高齢運転者標識というのもあるが、あちらは罰則規定が今のところない。罰則規定とか制度上、政治上のあれこれを申し上げるのは別の人に任せるとして、問題はマークの耐久性だ。初心者マークと違いこちらは掲示期間が1年以内ではないためか、色あせてしまっている高齢者運転標識をつけたクルマが多く見られる。色あせるほど掲示が長期になることを想定していなかったのか、はたまた単に制度製定時にそこまで気にしていなかったのか、後者だろうなあと思う。

 

 

 初心者マークをあしらった女性用下着があったら面白いなあと思った。

*1:と呼ぶのは私の父だけかもしれない

*2:1マイル≒1.6キロ。つまり50マイル/時は80キロ/時ということになる

承認欲求を大切に

 今日は題して「承認欲求を大切に」です。別にご自身の承認欲求を大切にしろ、と言っているわけではなく、自分以外の承認欲求を大切にしてあげると大変生きやすいですよというのが本日の結論です。弊ブログは良い文章を送り出すため、結論から言うことにしている日があります。今日がその日です。

 

 さて、皆様それなりに人生経験はおありと存じますが、長い人生の中で一度くらいは「せっかく○○してあげたのに!!!!」「お前のことを思ってやってんだよ!!!」等とキレられたことがありませんか。……ないですか。そうですか。じゃあ、あなたの周囲は承認欲求がない人間で埋め尽くされていたのでしょうきっと。まあそんなことはなくて、大なり小なり上記のように感情を露わにされた経験があるのではないでしょうか。別に恋人間での痴話喧嘩に限りません。「せっかく夕飯を作ったのに殆ど手を付けないなんてどういうことだ」と母親の機嫌が悪くなるとか、「せっかく一生懸命授業をしているのに居眠りしやがって」と教師の機嫌を損ねてしまったりとか、これらも「一生懸命に作った夕飯に対して美味しいと言って欲しい、せめていっぱい食べて欲しい」という欲求が満たされなかった、だとか、「せっかく長い時間かけて教科書を読み込み、授業で扱う問題も精選し、教材も作ってきたので取り組んで欲しい」という欲求が満たされなかった、という点に起因します。承認欲求というと、何かしらの作品を創るクリエイターだとかが常に評価を求めて消耗している様をイメージしがちですが、必ずしもそうではありません。というより、大なり小なり、どのような人間も、承認欲求を抱えていると思えばよいでしょう。本当に無償で、対価も評価も要らないけれど、何かしらを施してくれる人が居たら詐欺師ではないかと疑いましょう。タダより高いものはありません。

 

 谷川流涼宮ハルヒの憂鬱」作中にも、キョンが夕飯を数日続けて外食したため、「そろそろ母親の作った食事を摂らないと機嫌が限界だ」というような表現があった気*1がします。即ちこれはいちばん身近な承認欲求であるところの、母親が「母親であるという役目をきちんと果たしていることを評価されたい」という欲求を満たさないと、そろそろ機嫌がまずいことになる、というのをキョンが理解しているという意味です。従って、ご飯が出てきたら「ありがとう、おいしいよ」と言い、着替えが洗濯後に畳まれていたら「ありがとう」と言えばいいのです。当然、棒読みではなく、接客業的なホスピタリティにあふれる笑顔で心のこもった言い方をする必要がありまして……というのは、読者諸賢にとっては自明のことと思いますが、身近な家庭で処世術を養えると思えばこそ、いい習慣となるのではないでしょうか。なお、相手が母親ではなく父親であっても、あるいは兄弟、友人、恋人であっても、「(いつも)ありがとう」のひと言に感情を乗せられるかどうか、ただこの1点が人間関係の分水嶺となってしまうことも少なくありません。なお、場合によっては、親の承認欲求を満たすために、テストの順位がどうであるとか、模試の成績がどうであるとか、行く大学のレベルがどうであるとか、成績だけではなくオベンキョに対する態度がどうとか、そういうことも求められる場合がありますが、独立するまでの辛抱ですから付き合ってあげましょう。機嫌を取る(≒扶養していただいていることへの"感謝"をしている演技をする)だけで扶養して頂けるというのは、生まれた家で、独立までの期間限定でしか味わえない境遇かと思います。専業主婦・主夫にでもなればまた話は別でありますが……。

 

 とまあ、このように、感謝の言葉に心を乗せるという演技スキルが高くなりますと、どちらへ赴いても邪険に扱われることは少なくなります。よく、接客業をしているとクソ客が、などというお話を見聞きすることとなりますが、逆に優良顧客としての振る舞いを演技するだけで、顔を覚えてもらえたり、有利な取り計らいをしてもらえたりすることが増えて大変オトクです。当地に越した際も、近所のスーパーの店長に早々と顔を覚えられてしまったような気がします。おそらく気の所為です。あちらの店長スキルが高すぎて、お客さんの顔を覚えましたよと顔をみたら満面の笑みでいつもありがとうございますと言うようになっているのです。そう、こちらの承認欲求が満たされる時、相手の承認欲求を満たされる……Win-Winの関係が、そこにはあるのです。承認欲求というのは、渡した分が目減りするゼロサム・ゲームではないのです……!

 

 承認欲求をやりとりする最も本質的な行為がセックスです。男女(とは限りませんが、簡単のために一度こうさせてください)の間で承認欲求をやりとりをし、その欲求の形は、感じている演技であったり、練りに練られたデートであったり、最も単純に貨幣であったり、あるいは、枕営業であったりと様々な思惑が複雑な形で渦巻いているでしょうけれど、一方的に損得が発生する関係性は長く続かないという点でお察しいただけるかと思います。鰯の頭も信心から、はじめは感じているという演技で能動的に喘ぎ声を出していても、いつの間にか子宮で感じる肉棒の硬さにどこか嬉しさを感じるようになるかもしれません。そんじょそこいらのキュレーションメディアとは違いますから断言はしませんが……。私は性的なことを嫌悪する女性よりも、演技であってもえっちな顔で誘ってくれる女の子のほうが好きです。

 

 家族という身近な人間間ですら承認欲求が渦巻くのですから、新興宗教のカリスマ教祖というのは相当な承認欲求に応え、心の隙間を充填することができているのでしょう。そして、信者の崇拝で自らの承認欲求も満たし……あらあら、新興宗教の構造すらも承認欲求で説明がついてしまうのでしょうか。少々乱暴な気もして参りましたが、人間を堕とすならば承認欲求から、単なるやりがい搾取はもう古い、これからは承認欲求を満足させつつ搾取をしてくるスタイルが流行ります。だからこそ、安易に承認欲求を充足させてくる相手には気をつけましょう。特に、不倫だとか浮気だとかは、現状の配偶者や恋人が満たしてくれない承認欲求を上手に埋めに来ることでしょう。自分の心の隙間を把握して、正しい相手に「ここを埋めろ」と直接要求するか、あるいは自分で埋めるかできる人間になりましょう。

 

 

 だから私は膣内射精という形で承認欲求を充足したい。

*1:たぶんあったはず。各自どこかで読んで補完してください。

ちょいブス巨乳

 今日のお題は酷いものである。「ちょいブス巨乳」である。この語句はなかなかに深みがある。まず前半。「ちょいブス」である。もはや説明は不要であるがあえて説明するとすれば、ブスというのは減点法の語である。ところがぎっちょん、"ちょい"ブスとすると、途端に意味が曖昧になってくる。「10分前」だといまから600秒ぐらい前の話なのに、「9時10分前」だと8時50分なのか9時9分ごろを指すのか曖昧になるような感じである。一部地方だと「9時前10分」という口語でもって8時50分を示すそうだ。あまり馴染みのない言い方だけれど、あいまいさを回避するという意味で生まれた表現であろう。従ってブスだと目も当てられない感じに顔のパーツの合いが絶望的であろうけれど、ちょいブスともなれば美人とはとても言えないんだけど惜しい感じになる。ブスが朝3時、美人が正午とすれば「ちょいブス」は11:45頃、みたいな感じ、と言えば良いだろうか。従って、人によって意味合いは変わるであろうけれど、「ちょいブス巨乳」という文脈において私は「11:45頃の顔」を提唱する。異論は認める。美人は3日で飽きるとか、ブスは3日で慣れるとかそういうのはあまり好きではない。毎日新鮮に暮らさないとマンネリ化してしまうからだ。「あいしてる」「いつもきれいだね」「うーん、最高」「ええんやで」「おっぱい」、これが毎日を円滑にする魔法のあいうえおだ。今日からフリー素材として使ってよろしい。

 

 続いて「巨乳」である。実部と虚部の話ではなくて巨乳の話だ。貧乳のほうが曲率半径は大きく鈍角であるから、自然な曲線を描くとすれば虚乳部はとてつもなく大きいという理屈はあれど、絵に描いた乳は揉んだりすったりできないので却下だ。ここでは実乳のみを扱う。複素乳平面は指導要領に含まれない。とはいえ、巨乳という語の概念もまた曖昧なものだ。Aカップを巨乳と言うかどうかはともかく、Cカップを過ぎたあたりから巨乳と認める人間の割合が有意に増えるように思う。高校時代、ラスベガスみたいな名字の同級生は、火災報知器のランプを手で揉み、「Dカップ」などと寝言を抜かしていたが、あながち彼のサイズ感は外していないように思う。そう、Dカップくらいでは軽率にパイズリができる二次巨乳には及ばない。ブラを外せば谷間は曖昧。そもそもおっぱいというのは脂肪以前にほとんど水である。水は低きに流る。そう、どれだけブラ上で大きなおっぱいも、仰向けにゴロンと寝てみれば、まるでホットプレートにホットケーキミックスを流したようになってしまうのが物理法則というものだ。非常に残念がる人も多いだろう。まあ絶望せずに最後まで話を聞け。物理法則というものは裏切らない、従って逆におっぱいに四つん這いになってもらって下から吸えばよろしい。今度は重力を味方につけてさながらウシチチのように大きな質量感のあるおっぱいが上からぶら下がっている状態となる。感動だ。同じ素材も料理方法で満足感が得られたり得られなかったりする。もったいないことはよくない、せっかく吸えるおっぱいがあるのだから少しでも質量感で満足しよう。セックスはお互いが満足できるのが一番であるからしてもらいたいことは言ったほうがよろしい。

 

 ここまで長々と書いたけれど、ちょいブスかどうかよりいい匂いがするかどうかのほうがよっぽど重要だし、吸えない巨乳より吸える貧乳という構図は覆らないから、今日明日とつぜん巨乳女に恋人があっさり奪われてしまったりはしないから安心して欲しい。……たぶん。新自由主義のもとに自由恋愛市場ではダメっぽくなったら次の相手をキープしつつシームレスに乗り換えるというのも多くあるわけだから安心はできないが。離婚率が3割じゃ結婚も引き留めパワーに欠けるということか。なんにせよ、おっぱいは若いうちにたくさん吸われておいて欲しいし、私も若いおっぱいをいっぱい吸いたい気分だから、功利主義的に世界が幸せになるためにみんなセックスをしてほしい。そこに私が不在でも構わないから市場が活発になってくれることが一番である。いくら需要があっても供給が絞られちゃうと市場が冷えちゃうからね。

 

 ビキニ着せたまま谷間にちんちん突っ込んで遊びたい。

5000兆円欲しい

 しばらく意識が明後日の世界に飛んでいた。別にルンバに拉致られて南半球へ連れて行かれていたわけではない。かつてはただただ欲望を書き連ねるだけで記事が出来上がったにも関わらず、筆が進まなくなってしまったのだ。即ちこれは無欲の境地に達してしまったということか。解脱である。プシュケーか。99割寝ていた高校倫理の教科書に出てきそうな単語を並べてみただけだ。人間は考えるアホである。兎に角、自分のことが好きで好きで仕方ない美少女に好意をまっすぐぶつけられてその日のうちに裸で抱き合うような、そういう欲望の灯火も消えたわけではないが、もしそういう欲望が達成された後の「いま抱いたこの美少女の保護者はどんな人なのだろうか」「この美少女を扶養しなければならないのか」「籍を入れるにしても会社に届け出るためにはこの美少女のマイナンバーを調べなければならず、結局住民票を取らなければならない」「いやむしろ今の給料じゃ無理だからクルマを手放さなければ」と、万が一、いや、億に一つもないような都合のいいケースに至ったとしても、背後の不安が拭えない身体になってしまった、というべきか。こう言うと大変不遜になってしまうが、世は自分よりもそのあたりの手続きができないようなアホですら生きられるようにできているからあまり憂いはないのだが、とはいえ出たとこ勝負でうまく回るかどうか、不安材料が多いことには安心して欲望を出しきれないところがある。わかりやすく言えば、好意をまっすぐぶつけてくる私好みの美少女を次の生理までに孕ませるのに不安があるから心の底から膣内射精できない、ということである。

 

 そこで今日の表題である。「5000兆円欲しい」がテーマである。5000兆円。すべて1万円札であったとしても2トントラックで数十台、いや足りぬかも知れぬ。毎年1兆円ずつ使っても5000年分である。5000兆という、有限の数字がついてはいるが、事実上の無限円である。天文学では無限遠という言葉が出てくるがそういうことだ。つまり、金で解決できる事柄の心配が不要になる、シンプルに申し上げれば一生金に困らなくなるということだ。

 

 とはいえ、現実問題として、毎月の手取りが前職より少々増えたとて、足車としてATの乗用車と、遊び車としてMTのロードスター、それに物を運ぶクルマとしてハイゼットカーゴかプロボックス……とか言いながらクルマを3台持つわけにはいかず、現実問題として最大公約数的に日産キューブなんぞに乗っているわけであるし、田舎から東京に出る電車賃すら困窮して出せぬ有様というのは一朝一夕にどうにかなるわけではない。明日枕元に500万円積んであったとしてもそれは端金であり、一生金銭的な苦労がどうにかなる金額ではない。

 

 とはいえ、金銭的な苦労はさておいて、多額の金銭の出費が絡まない人生の選択肢において、先だってのテーマである5000兆円というのは大変揺らがぬ指針として使えるのである。何かしらを選ばなければならない時に「それは5000兆円持っている場合の選択かな?(ポロロン」と、一度脳内で自問自答するのである。なお、"多額の金銭が絡まない選択肢"というのは、単純に、無い袖は振れないからである。

 

 なんだっていい。休日に惰眠を貪っていつもよりかなり遅い時間に起きて後悔するか、寝足りない気はするものの二度寝せずに起きるか、5000兆円持っていれば絶対に後者である。金を使いたくて使いたくてたまらないわけだからだ。あるいは……と考えたところで、お金が絡まない選択肢というのはほとんど存在しないことに気づく。2,000円かかる回転寿司か、280円の牛丼で済ませるか。3万円払ってソープランドに行くか、ソープランドの出勤表を見てタダでシコるか。MVNOに契約を変えて毎月2,000円で昼休みとアフター5にイライラしながらスマホを使うか、毎月8,000円払ってMNOでストレスなくスマホを使うか……なるほど、金が潤沢にあったら悩まない選択肢ばかりだ。これは驚いた。自分でも無意識のうちにカネがないからと選択肢を減らしていた気がしてくる。しかし、大切なことだからもう一度申し上げるが、無い袖は振れない、のである。

 

 そうすると最終的に5000兆円が欲しい場合は5000兆円持ってる女性に選んでもらうのが近道になりそうだ。5000兆円で結婚してくれと言われれば最上である。自分を5000兆円相当へ。仮に5000兆円持ってても結婚して欲しいと相手に言わせれば勝ちである。対極にあるのは、愛はないけどお金は必要だから離婚しないでいるタイプのアレである。専業主婦になって離婚できずに後悔しているから娘は絶対フルタイムで働かせるというタイプのアレだ。お金を稼いでこなくなったら楽しいスピードで離婚の事務手続きが進むであろう。

 

 5000兆円あったらラブホに入るかどうかで悩んだりしなくなるんだろうなあ(反語)